水が出る

 台風8号は無事通過した。当初の予想では、史上最強などと言われたため心配したが、ここらでは被害らしい被害もなかった。安堵。

 台風を一番喜んだのは子供たちであろう。市内の学校(小・中・高)はすべて休みになった。私も子供のころは、台風がくるとうれしかった。胸がわくわくドキドキした。学校が休みになることが一番だが、ほかにも楽しみがいっぱいあった。竹を割って風車をつくり、堤防の上でブンブン回した。上流からは材木などいろんなモノが流れてきて、それらを集めた。大水のあとは、ウナギや鯉などがたくさんとれた。大人たちも結構楽しんでいた。

 ここらでは、川の水が増水することを「水が出る」という。「今日は水が出ちょるねや・・・」。谷々から水がわき出るという意味か。「水が出る」ことが日常茶飯事のため、水をやり過ごすというか、うまく付き合ってきた。

四万十川は全国に名だたる暴れ川。昭和4年、当時の内務省が渡川改修事務所をはじめて中村に置いたころは、計画洪水量(洪水の予想規模)日本一であった。それから、延々と治水事業を行なっている。同一水系(渡川水系)で、四万十川本流、後川、中筋川と3つの一級河川をもつのは、全国でここだけである。

中村はこれら3つの河川が合流するデルタ上に乗っかった 町である。だから、いつも水没していた。下の写真は、明治(左)と昭和(右)。こんな具合だ。(中村の百年写真展から)

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過去最も大きな「水が出た」のは、昭和10年。町中が湖のようになった。しかし、死者は出なかった。みんな、逃げ方を知っているからだ。

こんな話がある。
昭和29年、11か町村が合併して中村市ができた。市役所庁舎は天神山を切り崩して建てることになった。天神山には由緒ある天神社が鎮座していた。氏子たちは、昭和10年の出水の水位よりも高い位置に庁舎を建てることを条件に山を提供した。いまの四万十市役所もその時の高さのまま、海抜12メートル。それだけ中村の人たちは、水の脅威を身をもって感じていたということである。

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昭和10年に次ぐ、出水は昭和38年と平成17年。
昭和38年の時は、私は小学5年だった。夜、ローソクの灯で眠れなかった。実崎の堤防はあふれる寸前だったが、朝起きると、上流の古津賀の堤防が先に切れたため、八束は助かったと大人たちが言っていた。

いまでは長大な堤防が完成したため、家々が水に浸かることはめったになくなった。中村の町も四方を堤防で囲まれ、唯一、堤防がなかった不破・角崎地区もいま築堤事業が進んでいる。

しかし、一部、特に中筋川沿いには、地盤の低いところがまだ残っており、先月も道路と一部床下浸水した。内水による田んぼの冠水はいまでも年中行事だ。こうした低地には、過去の洪水記録を表示したポールが建っている。写真の先端が昭和10年の水位。(市内楠島)

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洪水とのたたかいには、ここらでは慣れている。対応も熟知している。
しかし、川を遡ってくる津波の経験はない。南海トラフ巨大地震対策として、これからはこの対策も重要。

水は上流からだけでなく、下流からも「出る」のだ。
肝に銘じておく必要がある。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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