とっさんほうだん

 今年の一月、父は念願を果たした。
 父は七年前、母を亡くしてからも比較的元気で、実崎の兄夫婦の近くで独り暮らしていた。夕食は運んでいたが、それ以外のことは自分でやっていた。家の周りの散歩が日課だった。
 一月十一日夜もいつものように床についたが、翌朝布団の中で意識を失っており、救急車で市民病院に運ばれた。脳外科の川田先生にみてもらったところ脳出血(硬膜下血腫)でそのまま意識が戻らず、十九日、息を引き取った。満足の笑みを浮かべて。享年九十歳。

  寂しさも孤独も無縁で生きてをり 寝込まず頓死をただ願いつつ

  妻逝きて独立独歩で吾は生き 頓死を願いつ日々を過ごせり

 父豊暖は大正十四年生。読みにくい名前なので「とよはる」と呼ぶ人はなく、地元では「とっさん」。小学校のころ、同級生の誰かがそう呼んだ。「豊さん」が「とっさん」になったのだそうだ。
 戸籍上三男だが兄二人は赤子のまま死んだ。だから祖父が竹島の菩提寺住職に頼んで奈良の命名学者に名前をつけてもらったというが、字数が多いなど本人は気に入らなかったようで、自分の四人の子の名はみな一字にした。
 大阪逓信講習所を出て、中村郵便局(本局)に五年勤めた後、昭和二十二年、二十二歳で祖父が開設(大正八年)した八束局を継いだ。逓信講習所では名を「ほうだん」で通した。以後、郵政仲間はみなそう呼んだ。
 中村局ではトン・ツー担当(モールス通信電報)。先輩に小姓町の宮川正一さんがいた。宮川さんはアララギ派歌人で、有岡出身の橋田東声を師とし、夫婦で勤めていた。「お前も歌をやってみないか」と誘われ、突山朋男(とっさんほうだん)のペンネームを思いつき、時々、会誌「覇王樹」「ポトナム」などへ送った。
 戦局が厳しくなり、幼なじみや同僚が次々と応召。次は自分と覚悟を決めていた。十代の歌から・・・

  戦える国の静けさ夜勤終え 夜更けの風呂に身を沈めたり

  電鍵を剣にかえて大敵へ 斬り込みにけん最期に哭かゆ

  敵機来襲身近に危機を感じおり 兵とし征かん日は迫りつつ

 中村局で仲が良かった同僚に大方町上田ノ口の川村渉さんがいた。上林暁の小説「過ぎゆきの歌」のモデルになった歌人川村八郎(一時後川局に勤務)の弟で、局を辞め満州に渡ったあとすぐ現地召集された。
 昭和二十年八月九日、ソ連参戦。渉さんの部隊は牡丹江付近で応戦したが、同十三日、敵弾が腹部を貫通し、絶命。
 このほど渉さんの墓を上田ノ口に訪ねた。辞世の歌が刻まれていた。そういえば、父は「ほうだん」に「砲弾」の当て字も使っていた。

  死してなお九段の華と咲く身なら いさぎよく散れ北のあらしに

 結局赤紙は来なかった。通信を担当していたからだろうと言われたが、本人は割りきれないものを持ち続けていたようだ。

  ○○電目凝らして受信せり 遺族の姿ゆ瞼に浮かぶ

  十代ですすんで戦に倒れたる 君らを偲びぬ寝がたき夜に

 郵便局退職後は母の農作業を手伝ったりしていた。「文芸なかむら」に突山朋男で歌を投稿したり、母が先に逝ってからも頑固に独りふんばっていた。 
 しかし、段々と弱気に。八束小学校の同級生の男は二十七人いたが八人戦死、あと○人になった、と言うのが口癖だった。自分の両親はポックリ逝った。自分はそういう系統だ、と強がりを言っていた。

  八年を病みたる妻の不憫さに 頓死を望み八十路さ迷う

  祖父母父母妻兄二人の墓地前に 佇みながら在りし日偲ぶ
   
 昨年暮れの誕生日。子、孫、ひ孫が揃い祝った。ケーキを持った満面笑顔の写真が最後になった。
 私もいずれ父にあやかりたいと思う。

                                  「文芸なかむら」28号より
                                  2014年7月

                                   きょうから父の初盆です・・・

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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