沖縄慰霊の日

きょう6月23日は、沖縄慰霊の日。

昭和20年、日本で唯一の本土戦となった沖縄戦において、日本側の組織的抵抗が終わった日、降伏の日である。この日は、糸満市にある摩文仁の丘では、毎年慰霊式典が行われている。沖縄県では、休日となる。

私は今年2月、ここを訪ねた。平和の礎(いしじ)が建てられていた。

沖縄戦で、約20万人の県民が死んだ。日本軍によって米軍の盾にされ、自殺を強要された者も多い。本土防衛の名のもとに、犠牲を強要されたのだ。

戦後は、アメリカが占領。銃剣とブルドーザーにより、米軍基地が次々とつくられた。

1950年、サンフランシスコ条約で日本が「独立」したさいも、日本政府は沖縄を見捨て、沖縄では日本の法律が適用されない、アメリカの意のままになる「日米地位協定」を結んだ。その後の沖縄本土復帰後もこの協定は続いている。

きのう夜9時のNHKニュースで、、あす沖縄慰霊の日として、報道していたが、違和感を覚えた。

身元がわからない遺骨がいまでもいまでもたくさん発見されている。戦後73年たち、当時を知る人は少なくなった。若い人たちが、語り部として、引き継いでいかなければならないと・・・

報道では、いまの沖縄の米軍基地の現状は触れられなかった。本土にあったアメリカ海兵隊基地が、地元の反対にあい、沖縄に移されるなど、戦後も基地は増え続け、いまでは国内米軍基地の74%が沖縄に集中している。

なのに、さらに辺野古に新基地を日本政府はつくってやろうとしている。沖縄に犠牲を押し付ける。

沖縄戦における沖縄差別の構造はずっと続き、さらに増幅されている。

なのに、NHKは、沖縄戦を過去のものとして、記憶の風化が進んでいるということしか言わない。沖縄の基地の現状にはふれない。NHKの役割は、沖縄の現実から国民の目をそらさせること。

沖縄戦を過去の「記憶」レベルに矮小化してはいけない。
沖縄戦はいまも続いている「現実」なのだ。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-414.html


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がんばれ枚方市

きのうの大阪北部地震で本市姉妹都市の枚方市が心配だ。

枚方市は震源地の高槻市と淀川をはさんで接している。報道では、市内の死者はなく、家の倒壊などもなかったようである。

しかし、家具や食器が散乱した家庭が多かった。また、電気、水道、ガスなども一時ストップ。市は53カ所に避難場所を設置したようだ。

枚方市は四万十市の姉妹都市である。昭和44年、旧中村市時代、縁組協定をした。以来、各分野で市民同士の流を進めてきている。

近年では、毎年、10月、枚方市民向けの物産市に四万十市の特産品をもって参加しており、四万十川のアユやアオノリなどが喜ばれている。

枚方市は、中村市のあとも、北海道別海町、沖縄県名護市とも姉妹都市縁組の輪を広げた。そこで、いまは枚方市が軸となって、4つの市と町の間で、友好都市サミットを持ち回りで開いている。

私が市長時代の2011年には、サミットを別海町で開いた。この時は、4市町間で「広域的大規模災害における友好都市間の相互応援協定」を結んだ。いざという時は、互いに応援しようという内容だ。

まさに、今回のような自然災害がこの場合にあたる。

きのうの四万十市議会での中平市長の答弁によれば、枚方市と連絡をとりあって情報収集にあたっているようだ。

その後、応援物資を送るとか、なにか支援対応をおこなったのか気になるところだ。

困った時こそ、助け合う。これが、兄弟姉妹である。

がんばれ枚方市。
早い復旧を祈っている。

上ノ加江

6月16日、高知市に向かう途中、少し時間があったので、高速を中土佐インターで降り、久礼に昨年できた「道の駅」前を通り、初めて上ノ加江を訪ねた。

以前から、その地名に興味があり、一度行ってみたいと思っていたから。

というのも、土佐清水市には下ノ加江がある。私の家からは、市境の伊豆田峠を越えたすぐの港町で、足摺岬などに行く途中、いつも通る。時々、干物などの海産物も買いに行くので、なじみ深い。昭和29年、合併で土佐清水市になる以前は下ノ加江町であった。

上ノ加江と下ノ加江・・・双子のような名前である。なのに、二つは遠く離れている。

同じ地名に「上」「中」「下」を付けて分けることはどこでもある。私の住む四万十市八束(旧村)にも「上木戸」「下木戸」がある。また、実崎も上組、中組、下組と言って、回覧板などを分けている。

それらに共通しているのは、互いに隣接していること。私にはそのイメージがずっとある。

なのに、私の家から上ノ加江に行くには、大方、佐賀、窪川、久礼を通らなければならない。いまでこそ、窪川から高速に乗れるので、だいぶ早くなったが、それでも今回1時間40分かかった。以前なら、ゆうに2時間を超えただろう。

中土佐町の中心部の久礼は高速道路、国道、鉄道も通っているが、上ノ加江はそこから海岸沿いに入ったところである。いまは道がよくなったので、10分ほどで行けたが、道はその先の矢井賀までの行き止まり(今回そこまで行った)であるから、普段は地元の人しか通らない。

上ノ加江も港町であった。昭和32年、久礼町と合併して中土佐町になる前は上ノ加江町(村ではない)であったというぐらいだから、かなり人口もあったようだが、その日は高齢者の人影がポツリ、ポツリ見られるくらいで、シーンとして不気味さを感じるくらいであった。

下ノ加江も同じであり、高知県の漁村はどこもそうである。山村、漁村を問わず、どこも過疎高齢化が進み、その限界近づきつつある。

ここもかつては、若者があふれた、港町であったろうに・・・

そうなのだ。
二つは、海に由来する名前なのだ。最近、土佐の「海の道」の歴史に関する本を読んでいてわかった。

いま人間の移動は陸路中心である。特に、県内移動は陸路しかない。だから、距離感覚等も陸路の発想になるのはやむをえないことだろう。

しかし、かつては海路が中心であった。古代から、すぐ最近の昭和前半くらいまで。

「江」とは「入り江=港」のことである。海の道からすれば、二つの距離ぐっと縮まる。

といっても、二つの港は隣接している訳ではない。その間に、いくつかの港があるのに???

たしかに、沿岸伝いで進めばそうである。しかし、沖に出れば違う。沖から見れば、ふたつの港までは等距離になる。沖からの感覚では隣なのだろう。

しかし、隣はいくつもあるのに、なぜ、二つがペアに選ばれたのか。何か共通するものがあったのではないだろうか。

これについては、黒潮町の「上川口」と土佐清水市の「下川口」についても言える。二つとも同じ港町であるが、陸路でいえば、かなり離れている。

それぞれの、「何か」を知りたい。
ご存知のかたは、ご教示ください。

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坂本清馬の中村

大逆事件最後の生き証人坂本清馬は、中村で一九七五年一月一五日、八九歳で没。

墓は三年後、秋水が眠る正福寺幸徳家墓の同じ並び、裁判所壁際に、大逆事件の真実をあきらかにする会、中村地区労働組合協議会、坂本清馬翁を追悼する会の三者によって建てられた。

清馬は一八八五年、母の実家室戸市で生まれた。坂本は母芳の姓。父岡村幸三郎は中村生まれの紺屋職人で、二人は高知市で知り合ったとされているが、両家の墓の所在、親類縁者の消息等は不明。清馬も口にしなかったという。

清馬は獄中二五年を経て、いろんな仕事を転々としたが、最終的には戦中、中村に落ち着く。

中村では敗戦の翌年一月二四日から秋水墓前供養(法要)が始まる。最初は幸徳家行事として富治(駒太郎長男)が主催したものだが、中村に清馬がいたからこそ早々に実現したものである。

清馬の性格は生来、直情径行、激情型で、秋水への接近・断絶がそうであった。無実を叫び続け、獄中から司法大臣に上申書を出すほど。人間不信から、性格は一層歪められ、ますます狷介、巌窟王の形相に。仮出獄も一番遅れた。

戦後まもなく、独自の「日本皇国憲法草案」を発表。革命研究にも熱心で、新生中国、毛沢東に関心を持ち、日中友好協会中村支部を結成。

公民館建設、結核療養所(のちの県立西南病院)誘致などの「住民運動」にも取り組んだが、周りと一緒にというよりも独断専行面が強かった。

中村町議会補欠選挙では上がったが、本選では落ちたことに、それが表れている。清馬は一般市民にとって「むずかしい」「こわい」「変わった」人であった。

一九六〇年、秋水五十年祭では実行委員会事務局長を務め(会長は市長)、盛り上がりをみせ、これをステップ再審請求に立ち上がる。

東京には裁判支援組織、大逆事件の真実をあきらかにする会ができた。中村地区労など地元団体政党等も「中村市大逆事件の真実をあきらかにする会」の名前で、全面支援した。

しかし、再審運動は順調に進んだ訳ではない。清馬の強烈な個性から、何度もぶつかった。森長英三郎弁護士たちも手を焼き、なだめすかしながらであった。

地元の活動家たちもだんだんと清馬を避けるようになる。「大逆事件生き証人」「闘う人」としては認めても、目の前の「人間」としては受け容れられない。地元で清馬と親身に付き合う者、理解者は限られてくる。経済基盤をもたない清馬は、一部の人たちに支えられた。愛犬の黒い犬とともに。

清馬は死後もずっと師秋水の陰の存在であった。墓には看板もなく、清馬がすぐそばに眠っていることに気づく者は少なかった。
没四〇年の二〇一五年、はじめて秋水との合同墓前祭とし(以後五年毎)、命日(秋水より九日早い)には有志で墓前供養を始めた。二〇一七年には、墓地入口看板を秋水・清馬連名とし、清馬説明板も設置した。

秋水は処刑され名を残した。清馬は最後まで闘い続けたが、地元でも名前は忘れかけられている。

幸徳秋水を顕彰する会は秋水だけの会ではない。「門人清馬」(清馬の言葉)を含む、いや大逆事件で「いけにえ」にされた人たち、さらには不当な人権弾圧で犠牲になった人たちすべての「呻き」を広く伝える会であらなければならないと思う。


 管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会
 機関誌 20号 2018年6月 掲載

坂本清馬

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中村町人文化と幸徳秋水(下)

一方、秋水は二歳の時父を失い母子家庭となる。しかし、伯父篤道(父の兄)が後見人となり、一家で同居。また、中継養子駒太郎も迎えたことから、幸徳家は複雑な大家族となった。

そんな中、秋水は八歳で木戸明の遊焉義塾に入るが、周りはみんな士族の子どもたち。安岡秀夫(良亮の子)、桑原順太郎(戒平の子)、小野栄久など。

秀夫の兄雄吉(のち代議士)が東京から送ってくるハイカラな雑誌(「絵入自由新聞」など)から刺激を受けた。

塾の中で秋水は一番優秀であったとはいえ、商人の子はやはり商人の子と見られる。彼らはみんな母方の親戚の子であったが、だからこそコンプレックスだけでは説明できない、わけのわからないモヤモヤが生まれたのではないか。

秋水が入学した中村中学は途中で廃校となり、高知中学に吸収された。安岡秀夫らはそのまま高知に進んだが、秋水は父亡き後の経済事情もあり二年遅れた。このため挫折中退。モヤモヤはさらに濃くなった。

家に帰っても伯父や伯母が差配を振るい、母はじっとがまんしている。

そんな環境、境遇からくるストレスが爆発し、わずか十六歳で家を飛び出し、東京の林有造の門をたたいたのではないか。

その後、中江兆民との運命的出会いがあり、その薫陶を受け、やっと腰を据えて勉強に集中する。自由・平等・博愛思想をたたきき込まれ、非戦平和から人間解放の社会主義に理想を深化させていく。

その過程で堺利彦と平民社を立ち上げ、平民新聞を発行。「平民」、「平民」と、ことあるごとに平民にこだわった心の内が読み取れる。

秋水は自分の親戚の出世頭は熊本神風の乱で斬られた安岡良亮(初代熊本県令)だったと誇らしく語っているように、親類縁者を大切に思う心はずっと持ち続けていた。雄吉、秀夫らとの付き合いも生涯続いている。

秋水の思想形成に最も大きな影響を与えたのは中江兆民。しかし、兆民思想が注ぎ込まれる土壌になったのは、複雑な姻戚関係等秋水の家庭環境にあった。秋水は身分、階級というものに敏感な少年に育った。

その根源は、商人と士族であった両親の異例の縁組にある。

さらに言えば、町人が実力をもち、町人文化が栄えた中村という町だったからこそ、そんな組み合わせが生まれたということである。(終り)

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 秋水生家跡(中村京町)


 二〇一八年一月二十四日、幸徳秋水刑死一〇七年墓前祭記念講演会要旨
 当日の演題は「中村町民文化と幸徳秋水」
 「秋水通信」24号所収





プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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