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秋水と小澤征爾ファミリー(3)

私は1月25日、東京都渋谷区正春寺(管野須賀子墓がある)で毎年開かれている大逆事件犠牲者追悼集会に今年も出かけた。翌日、山梨に向かった。甲府駅で降り、タクシーですぐ近くの光澤寺にある宮下太吉(大逆事件死刑)の墓を弔った。

そのあと、またタクシーに乗り、旧高田村がある西八代郡市川三郷町に向かった。笛吹川の土手沿いの道を西へ進み、約40分、JR身延線市川大門駅と鰍沢駅(かじかざわ)の間、笛吹川と釜無川が合流するあたりの平野の中に高田はあった。

最初に事前に電話をしておいた小澤家の菩提寺、日蓮宗高田山長生寺を訪ねた。住職さんに本堂の中を案内してもらい、小澤征爾の父開作が昭和13年寄贈したことが刻まれている、大きな「おりん」を見せてもらった。当時、開作は満州で歯科医をしていた。

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  高田山長生寺     「おりん」の土台

小澤家の先祖墓は少し離れた共同墓地にあるという。住職のお母様とお嫁さん?が車で案内をしてくれた。

ファミリーヒストリーにも登場した2基の墓はごく普通の墓で、征爾の祖父新作、父開作らが入っているという(開作は分骨)。花を手向け、線香を焚き、手を合わせた。

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次に、新作、開作時代の小澤家があったという旧道沿いの場所に案内してもらった。そこはいまは他の人の所有に移っており、空き地で駐車場に使われていた。

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私は、明治の高田村時代の歴史に詳しい郷土史家のような方はおられないか聞いた。何年か前まではおられたが、その方は亡くなった、しかし、息子さんがいるので、もしかして何か資料をもっているかもしれないということで、そこも案内してくれた。

息子さんは詳しいことは何もわからないという。高田村史のようなものはないかと聞くと、1冊だけあるということで、「市川大門町史稿本・高田村誌」(1997年、市川大門町教育委員会)を出してきてくれた。幸徳秋水、秩父事件の話を聞いたが、まったくわからないという。

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小澤家の直系の人たちは、みな東京方面に出ている。遠い親戚筋の家は何軒かあるが、古老はみな最近亡くなったので、行ってもたぶん何もわからないだろう。「村誌」なら同じものが図書館にもあるというので、前の日新築移転したばかりの町立図書館に案内してもらった。親切にしていただいた車のお二人とは、ここでお別れした。

図書館玄関には役場の方がいた。訪ねた目的を話すと、小澤家に詳しい方がお一人おられるというので、連絡をとってくれた。

その方は、「小澤開作顕彰会」の事務局長を最近までされていたという伊藤進さんで、すぐに図書館においでくださった。郷土史コーナーでお話をお聞きした。

同じ地元出身でも、小澤征爾は有名だが、ファミリーヒストリーではメインで紹介された父の開作については、ほとんど知られていないということで、もっと開作のことも知ってもらいたいと、2年前に顕彰会をつくったのだそうだ。

伊藤さんは、今回のファミリーヒストリーの制作において、NHKに多大な協力をされた。番組最後に流れる字幕にも、お名前が出ていた。

小澤開作に関連する資料、記録を提供し、縁者も紹介。番組制作はNHKといっても、実際は椿プロダクションが下請けで制作したものであることを、教えてくれた。

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 伊藤進さん

伊藤さんは開作についてのたくさんの資料を持ってきてくださった。しかし、新作については、いまでいえば土方の棟梁のような人物で、消防組頭もやっていた、ずっと地元にいた(東京には出たことがない)、ということぐらいしかわからないと言われた。幸徳秋水、秩父事件についてはわからない、きいたことがないという。

また、「高田村誌」といっても大雑把な記述しかなく、秩父事件の落合寅市の逃亡を思わせるような記録はみたことがない。しかし、寅市本人が書いているという、甲府から鰍沢を通って身延、興津(静岡県清水)へ逃げたというのなら、通る道はここの旧道(中宿通り)しかない。小澤家は旧道沿いにあった、と言われた。

私はNHKで証言をされた小澤清さんの連絡先をご存じないか聞くと、家に帰ればわかるというので、あとで携帯で教えてもらうことをお願いした。

図書館には小澤征爾の兄の小澤俊夫さん(作曲家オザケンの父)のコーナーもあり、たくさんの本が置かれていた。俊夫さんは、NHKでも紹介されたように、ドイツ文学が専門の筑波大学名誉教授で、89歳のいまもお元気で世界の昔話の普及に力を注いでおられる。神奈川県川崎市に小澤昔ばなし研究所を開き、昔話の出版はもっぱらこちらでされており、本には連絡先が書かれていたので、メモをして図書館を辞した。

伊藤さんは開作にかかるたくさんの資料をくださったうえに、市川大門駅まで送ってくれた。山梨の方はみなさん親切だ。いいところに来させてもらったと、こちらの気持ちもあたたかくなった。

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  市川大門駅

身延線で甲府まで戻り、中央線に乗り替えた。途中塩山駅で降り、金子文子生家跡と歌碑を見てから、新宿のホテルに帰ると夜8時を過ぎていた。

翌日27日は夕方の飛行機で帰ることになっていた。伊藤さんから携帯で教えてもらった小澤清さんの住所は都内であった。もしかしてご自宅に伺わせてもらえるかもと思い電話をした。しかし、通じなかった。

小澤昔ばなし研究所には電話が通じた。係りの方が、用件をメールしてくれれば、俊夫さんにつないでくれるという。

28日、家に戻ってからも何度も清さんに電話をしたが、通じない。俊夫さんには、メールを打った。内容は「幸徳秋水の話を聞かれたことがありますか」ということ。

29日、俊夫さんから返事のメールが届いた。「自分もテレビであの場面を見ましたが、幸徳秋水の話はまったくきいたことがありません。従兄弟の思い違いだと思います。」ということだった。

清さんには電話が通じないので、手紙を書いた。秋水の資料などを添えて。

すると、2月3日、清さんから電話がかかってきた。いまは埼玉県の娘さんの家におられるという。そこに私の手紙が回されたという。清さんは、私の質問になんでも話してくれた。以下のとおり。

自分は昭和6年生まれ、祖父の新作は昭和10年没。幸徳秋水の話は自分が小学生高学年のころ母から聞いた。新作の長男開作は家を出たので、次男の父清作が家を継いだ。新作の面倒をみたのは、自分の母よう、であった。新作は晩年、母にこの話をしたという。

祖父は、土方の棟梁だった。ずっと地元にいて、東京に出たことはない。義侠心に厚く、困った人が助けを求めてきたら、理由を問わずに助けた。しかし、ただそれだけで、思想面で秋水に共鳴していたとか、何か社会運動をしていたということではない。祖父は秋水の話は母にしかしなかったと思う。ペラペラ話すような内容ではないので。父からは聞いたことがない。

秋水の話は、いつ、どこで、どうやってかくまったのかという具体的なことは聞いていない。ただ、自分の頭にはずっと残っていた。母は平成4年に亡くなった。もっと詳しくきいておけばよかったと思う。

NHK(椿プロダクション)には、2時間くらいいろんな話をしたのに、テレビで流れたのは秋水の部分だけだった。あやふやな話を公にしたのはまずかったのかもしれない。NHKからは放送後、再度秋水の件で問い合わせがあった(私の抗議に対してだと思われる)。

秩父事件、落合寅市については、何も知らない。秋水に取り違えられたのではないかと言われても、わからない。


清さんは、ほかにもいろいろ話してくださったが(開作は頭がよかったと聞いているなど)、秋水に関する部分は以上である。清さんは、丁寧に、淡々と話をしてくれた。

秋水は山梨県に行ったことがないし、「かくまわれる」ように逃げることはなかったので(逃げる必要もなかった)、この話は間違いであることは確かである。

その中で、今回わかったのは、新作は東京には出たことがなかったということである。つまり、秋水との接触はありえないということがはっきりした。

しかし、清さんの話ぶりからすると、まったくの作り話とも思えない。となれば、晩年の新作の記憶違いか、母の聞き違いか、母の言い伝え間違いかということであろう。(もしかして清さんの聞き違いかも)

新作の晩年というと、大正~昭和10年である。秋水が処刑されたのは明治44年(明治は45年まで)であるから、その当時、秋水の名前は天皇暗殺計画の極悪人として有名になっていたであろう。秩父困民党の幹部で当時生き残りであった落合寅市(昭和11年没)が秋水と間違って伝えられた可能性はあると思う。

今回の山梨訪問では、NHKへの不信をさらに強くした。

NHKがおもしろい話に飛びついて、時代考証や専門家に裏付けをとることもせず、そのまま流してしまったことの問題の重大さは強調しておきたいのだが、そのことを指摘した私に対して、ウソの言い訳をしていたことがわかったからだ。

ここまでくれば、名前を書くが、私の問合せ、抗議に対して、昨年10月、電話で回答をくれたのは番組の小山好晴プロデューサーであった。

小山プロデューサーは、最終的には、事実確認をしないまま放送してしまったことを詫びたのだが、その話の過程において、清さんに再度聞いた話として、

1. 新作は地元だけでなく全国あちこちに出かけていた。どこかで秋水を助けたという話もでた。

2. 新作は身内のほかの者や近所の人たちにも自慢話としてよく話していた。

と言ったのだ。私は、この言葉を信じ、このブログの1回目に書いた。

しかし、これは今回書いたように、清さんや、伊藤進さんの話とは違う。新作は、ずっと地元にいた人だった。また、この話は清さんのお母さんにしかしていない(しかも、ヒソヒソと話した感じ)。現に、小澤俊夫さんは知らないという。

清さんから話を聞いたのは椿プロダクションであろうが、番組制作の最終責任はNHKにある。

初回に書いたように、私はNHKファミリーヒストリーには興味をもって結構見てきた。しかし、こんなにずさんで、視聴者にも不誠実な形で番組がつくられていることを知り、もう二度と見たくなくなった。歴史とは興味本位のエンターテイメントではない。

今回なぜ間違ったのか、真実はわからない。秋水でないことははっきりしているが、落合寅市だというのも「状況証拠」だけで確実な裏付けはいまのところない。

私は引き続き調査を続けていくつもりである。歴史の真実を明らかにするために。
(当面終り。新しい発見あればまた書きます。)

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長生寺から富士川堤防、西山を望む。

秋水と小澤征爾ファミリー(2)

昨年8月12日放送のNHKファミリーヒストリー小澤征悦(征爾の息子)の中で、征爾の祖父新作が「幸徳秋水をかくまった」と間違って紹介され、NHKも間違いを認めたことは、昨年10月22日付けこのブログで書いた。

この問題について、その後、新たな展開があったので、以下、報告したい。

ひとつは、ルポライター鎌田慧さんが、昨年12月24日付東京新聞「本音のコラム」でこの問題を取り上げてくれたこと。

鎌田さんは、幸徳秋水を顕彰する会会員。私は今回の顛末を幸徳秋水を顕彰する会の機関誌「秋水通信」27号(顕彰会ホームページにリンク)に書いたので、鎌田さんはこれを読んでくれたのだ。「NH  Kも軽くなった」と評していた。

鎌田慧 コラム 東京新聞2019.12.24

もうひとつは、私のこのブログに、「秩父困民党の人をかくまったのが、秋水に入れ替わったではないか」という旨の書き込みをもらった。(府中の府中着者さん、コメント欄で見られます)

私はなるほどと思った。明治17年11月の秩父事件では、幹部の何人かが全国に逃亡している。山梨県と秩父は山を隔てつながっている。それはありうることだ。

私は秩父事件の幹部で山梨県方面に逃げた者の記録が残っていないか調べた。ネットで埼玉県に秩父事件研究顕彰協議会があることを知り、問い合わせたところ、事件の幹部の一人であった落合寅市が山梨県を通って静岡県方面に逃げたという記録が残っており、そのルート上に高田村があることを教えてくれた。

落合寅市
落合寅市
後掲 中澤市朗『歴史紀行 秩父事件』より

秩父郡下吉田村生まれの落合寅市は秩父事件で蜂起した農民の一人。事件を描いた映画「草の乱」にも登場する。その記録とは、寅市が後年書き残した「綸旨大赦義挙寅市経歴」(『秩父事件史料』第二巻所収、埼玉新聞社発行、1972年)である。

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私はこの記録をネット古書で購入して読んだ。これによれば、寅市は最初東京に逃れ、それから八王子→甲府→鰍沢(かじかざわ)→身延→興津(静岡県清水)へと走っている。地図を見ると、確かに高田村は甲府→鰍沢の途中にある。

嘉永三年生まれの寅市は当時34歳。文久二年生まれの小澤新作は22歳。「人並外れた義侠心のあった」新作が寅市に宿を提供したことは考えられる。

秩父事件は、蜂起した農民たちにとってまさに「義挙」であった。秩父は貧しい山村。幕府倒壊、御一新によって生活が楽になると思っていたのに、地租改正、徴兵による負担増に加え、松方デフレ政策により、主産業の養蚕価格が大暴落、農民は高利貸しの餌食に。高利貸しは官と癒着していた。

秩父(武州)は山の中であるが、峠を越えれば、上州、信州、甲州だ。幕末慶応期には武州世直し一揆もあった。

こうした地に、明治十年代になると自由民権運動の波が寄せてくる。大井憲太郎らがオルグに入り、秩父自由党が結成され、秩父困民党へと発展していく。

秩父事件で立ち上がった農民たちは長い間、百姓一揆さながらの「暴徒、暴民」とされ、その子孫たちは日陰者扱いされてきた。

しかし、事実は、自分たちの生活困窮の原因は藩閥政府の悪政にあることを見抜いていた。「自由自治元年」の旗を掲げ、「恐れ多くも天長様に敵対するから加勢しろ」と檄を飛ばし、下吉田村の椋神社に馳せ参じた農民は約三千人。体制変革を展望した革命的行動であった。

驚愕した政府は山縣有朋の命令でただちに軍隊を派遣。近代装備の軍隊の前に、竹槍、火縄銃の農民軍は総崩れとなる。困民党総理田代栄助、参謀長菊池貫平、大隊長新井周三郎らは捕らえられ死刑に。会計長井上伝蔵は北海道に逃亡。西に逃れた落合寅市は副大隊長であった。

高田村の小澤新作は、同じ農民として寅市たちがとった行動に共感、同情したのかもしれない。

幸徳秋水は大逆事件で「逆徒」「極悪人」とされ、処刑された。罠を仕組んだのは同じ山縣有朋であった。

自由平等、貧しい人たちの解放をめざした秋水の社会主義、無政府主義は秩父困民党に通ずるものがある。新作の代には落合寅市だったものが、子孫に口伝えされる中でいつしか幸徳秋水に変わったのかもしれない。
 
落合寅市の話は、まだ続く。

寅市は静岡から奈良、大阪へと走る。さらに四国多度津に渡る。琴平、今治から土佐へ。立川、森村を通り高知、唐人町に入り、板垣退助を訪ねた。

板垣は一部始終を聞き、寅市をかくまってやることを約し、土佐山村の自由党員高橋簡吉を紹介した。寅市は簡吉について高知城下から小坂峠を越え、西川部落に身を隠した。

土佐山村では立志社創設の影響を受け夜学会が開かれていた。夜学会は民権結社山獄社につながり、のちに簡吉は初代土佐山村長になる。

寅市は秩父のことが気になっていた。土佐山に8か月潜伏した後、浦戸から神戸へ。同じコースを東に戻る。山梨県も同じ鰍沢→甲府を通ったので、あるいはこの時、小澤新作の世話になったのかもしれない。甲府からは東京に回らず、雁坂峠を越え秩父に戻った。

しかし、秩父では官憲の捜査が厳しく、またすぐに東京へ出た。旧知の大井憲太郎に会ったことで大阪事件に巻き込まれる。最後は九州門司で拘束された。

明治二十二年、憲法発布の大赦で出獄。その後は秩父に帰り、事件犠牲者の顕彰活動に身を捧げた。昭和十一年没。生涯自らを誇り高く「立憲志士」と呼んだ。

小澤征爾の祖父新作が「かくまった」人物が幸徳秋水でないことははっきりしている。落合寅市が高知へ逃げ、板垣退助にかくまってもらったのは事実である。秋水も高知のわが中村出身だ。同じ高知ということで、落合寅市が秋水と混同されて伝承された可能性は現実味をおびる。

しかし、これには「状況証拠」だけで、確実な裏付けはない。ここまで来たら真実を知りたい。私は山梨県旧高田村に出向くことにした。

なお、落合寅市の逃亡については、中澤市朗『歴史紀行 秩父事件』(新日本出版社、1991年)にも書かれている。(続く)











渡川 わたり川

2月1日、NHKブラタモリが四万十川にやってきた。来週と合わせて2回放送される予定だ。

番組は四万十川河口からスタート。四万十市役所生涯学習課(公民館)の川村慎也係長がナビゲーターになり、川の特徴や歴史について説明していた。

四万十川はこれまでも、またいまでも何度もテレビの旅番組で紹介されている。タレントも数知れず来ている。

ブラタモリのいいところは、こうした普通の旅番組と違い、科学的、実証的というか、学問的視点から、その地域の特徴を解説するところにある。だから、大変勉強になる。

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私はそんなところからこの番組が好きであり、以前からほとんど見ている。四万十川にも来てくれないかなと、ずっと思っていたところであった。

1回目の放送、川村さんの説明はなかなかよかった。この川について、知ってほしい、理解してほしい真実の姿をわかりやすく説明していた。

その中で、一つだけ、冒頭に時間的制約もあったのだろうが、詳しい説明を省略したところがあった。それは四万十川という川の名前についてである。

四万十川は1994年(平成6年)までは渡川(わたり川)と呼ばれていたと、古い地図を示して説明。タモリさんは「渡川は消されちゃったんだ」「かわいそうな気がするな」と言い、そのまま番組は進んだ。

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しかし、これは正確ではない。「渡川」という名前は、いまも残っているからだ。

こういうこと、である。

この川は、江戸時代のころの文献では、渡川とも四万十川とも書かれ、両方の呼び名があった。四万十川と書いて「わたりがわ」と読ませていた記録もある。二つが混在していた。

そうした中、明治になり、河川法がつくられたさい「渡川」のほうが採用されたのだ。

川の正式な名前はどうやって決まるのか。人の名前でもあだ名やニックネームがあっても、正式の名前は戸籍に登録された名前であるように、川の名前も河川法で登録された名前が正式である。

以来、法律で定める正式名称は渡川、俗称が四万十川ということになったのだ。

私の場合は、こどものころは渡川のほうがなじみがあった。赤鉄橋は四万十川橋であるが、バイパスにかかるっている橋は渡川大橋である。具同側の堤防沿いには渡川1~3丁目という地名もある。渡川病院もある。

しかし、1983年、NHKが「土佐・四万十川~清流と魚と人と~」を放送したことをきっかけに「最後の清流」ブームがおき、またたくまに、四万十川の名前がメジャーになったのだ。

こうしたことから、普段は頭の固いお役所(建設省)にしては異例のことであったが、法律を改正し、四万十川のほうを正式名称に変更したのだ。

だから、いまは四万十川のほうが正しい名前であるということでは、ブラタモリの説明は正しい。

しかし、詳しく言えば、この場合の四万十川というのは、川の本流をさしての名前である。

この川にはたくさんの319の支流があり、そのことが四万十という名前の由来になっているのだが(他説もあるが、番組ではこの説を採用)、支流にもそれぞれの名前があるのは当然のことである。

中でも、下流の中村で合流する中筋川と後川は単独の川としても大きな川である。四万十川は国管理の一級河川に指定されているのだが、中筋川、後川も同じように一級河川に指定をされている。海に注ぎ込む河口を同じくする川で、一級河川を三つももつ川は四万十川だけである。

このような場合、河川法では、単独の川のことを「川」、支流を含めた流域全体のことを「水系」と、それぞれ分けて定義している。

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この川の場合は、川全体の名前は今でも「渡川水系」のままであり、渡川の名前は厳然と生き続けているのだ。

だから、四万十川の正式名称は「渡川水系四万十川」なのだ。

以上、ブラタモリでは省略されていたので、あえて書いておきたい。

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山梨へ 宮下太吉、金子文子

秋水・清馬墓前祭の翌25日、東京へ戻られる亀田博さんと一緒に高知空港9:45発便で羽田へ飛んだ。13時から渋谷区正春寺で開かれる大逆事件処刑110回追悼集会に参加するためだ。

この集会への参加は昨年に続き4回目。近年は1月の最終土曜日、管野須賀子墓のある正春寺で開かれている。今年はちょうど須賀子の命日(処刑日)にあたった。主催は私も会員の「大逆事件の真実をあきらかにする会」。

集会の中身は、毎年ほぼ同じで、須賀子墓を弔ってから始まる。参加者は70名くらい。進行役は同会山泉進事務局長(明治大学名誉教授)。

今回もこの日に合わせて発行された同会機関誌「・・・会ニュース」59号が配布され、投稿記事に従って各地、各団体、個人からの報告が行われた。私からも前日の墓前祭と1年間の活動を報告した。

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その中で、前日の高知新聞一面大の記事「大杉栄ら15人分寄せ書き」が高知市で発見された(収集家が古書店から購入)ことについて触れた。秋水らの処刑から2年後、東京の料亭に集まった同志たちが書いたもの。堺利彦、荒畑寒村も入っている。記事を書いたのは秋水顕彰会会員でもある天野記者。

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新聞にコメントを載せている大杉栄の孫の大杉豊さんもこの集会に参加していたので、別に詳しい説明もされた。

集会後は懇親会。顔なじみになったみなさんと交流を深めた。

新宿の常宿ホテルに泊まって翌26日、山梨県に足を伸ばした。新宿駅始発の中央本線特急あずさ号で甲府まで1時間半。第一の目的は、昨年8月12日放送NHKファミリーヒストリー小澤征悦(征爾の息子)の中で、秋水を「かくまった」と誤って放送された小澤家先祖の地、旧高田村(現市川三郷町)を訪ね、その真相を解明することであったが、このことについてはまだ調査中であるので、後日詳しく書かせていただくことにしたい。(本ブログ2019.10.22)

甲府には以前東京から仕事の出張で来たことがある。今回、もうひとつ行きたかったのは宮下太吉の墓である。

宮下は「天皇暗殺計画事件」として大逆事件がフレームアップ(でっちあげ)されるきっかけになった「爆弾実験」をしたとされる人物である。宮下、管野須賀子、新村忠雄、古河力作が「謀議」したとされる中に、秋水は含まれていなかったが、「事件」の頭目にされた。

戦後の真相解明の中で、大々的に騒ぎ立てられた「爆弾」とは、七味唐辛子を入れるような親指サイズのブリキ管であったことが分かっている。おもちゃのようなもので、とても人間を殺傷できるようなしろものではなかった。

宮下墓は、甲府駅からタクシーで5分ほど。浄土真宗大谷派光澤寺の広い墓地の中にあった。墓と言っても、本人の名前は刻まれておらず、兄夫婦(藤作、うめ)の墓の隣に、石川啄木の言葉「我にはいつにても起つことを得る準備あり」が刻まれた石が建っている。裏面には、労働者太吉の紹介(1875年、甲府市生まれ)のあと、1972年9月23日、宮下太吉建碑実行委員会、とある。

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この墓の管理者(墓守)はいまおらず、無縁墓となっている。2年ほど前、神戸の秋水顕彰会会員がこの墓を訪ねた時には、寺が期限を切って撤去する旨の告知看板を建てていた。

しかし、その後、「大逆事件の真実をあきらかにする会」が真宗大谷派本部に申し入れ、歴史的人物の墓として永久保存されることになった。いま看板は撤去されている。墓には草もなく、きれいであった。よかった。

宮下は大逆事件犠牲者であることには間違いがない。当時、明治政府は社会主義、無政府主義者を一掃するための口実をさがしていた。そんな中、飛んで火に入る虫、宮下が「爆弾実験」さえしなければ・・・という思いをもちながら、花を手向け、手を合わせた。寺の関係者に話を聞こうと思ったが、ベルに反応がなく不在であった。

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帰りは、金子文子生家跡と記念碑(歌碑)を訪ねた。塩山駅からタクシーで20分ほど。旧牧丘町杣口(現山梨市)、山の斜面に広がるブドウ畑の中にあった。

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生家跡の外観は本で見た写真と同じだが、いまは第三者の個人から不動産会社の手に渡ったそうで、改装され、ゲストハウスのようになっていた。観光連盟のパネルを貼っていた。文子の史跡であるから、今後も少なくとも解体はせずに保存してほしい。

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記念碑は隣接する広場にある。文子の歌「逢いたるは たまさかなりき 六年目につくづくと見し 母の顔かな」が彫られていた(1976年建立)。

「第三の大逆事件」朴烈事件で裁判にかけられ、監獄に母が面会に来た時の様子だ。記念碑前のブドウ畑には「文子メルローワイン」の看板がくくりつけられていた。隣は寺だが、周りに家は少ない。

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文子は1903年横浜で生まれたが、無戸籍のまま転々とし、8歳の時、母の実家であるここに引き取られ、祖父の子として入籍されたので、ここが生地とされている。その後、親戚の養女とされ朝鮮に渡り、植民地支配の実態を肌で見る。

帰国後、朴烈に出会う。去年、中村で上映した韓国映画「金子文子と朴烈」のとうりだ。墓は朴烈のふるさと韓国聞慶市にあり、去年の7月、墓前で行われた追悼式典に出かけたので、ここも訪ねたいと思っていた。

日も落ち、暗くなってきた。正面には富士山が見えるというが、残念だ。30分ほどいて、待たせていたタクシーで駅に戻った。新宿到着時刻は夜8時になっていた。

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幸徳秋水刑死109年、坂本清馬没45年記念合同墓前祭

1月24日(秋水命日=処刑日)、標記合同墓前祭を行った。例年は秋水だけだが、5年前から5年に一度坂本清馬との合同祭としている。

清馬の命日は1月15日であり、その日は有志10人で弔った。正福寺佐藤住職に読経をあげてもらった。(1月22日記事)

24日の2日前の天気予報は雨であったことから、事前に献花台の上にテントを張った。しかし、曇天ながら、雨は落ちてこず、よかった。

参加者は記帳71名だが、実際はもう少し多く80名くらいか。神戸から8名、東京、大阪、岡山、熊本から各1名と、県外からの方が例年より多かった。

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冒頭、秋水顕彰会宮本会長が代表献花と弔辞を読み上げ。続いて、順次献花。最初に、遺族・関係者、地元田中和夫さん、長尾正記さん(駒太郎実家)、豊中市岡崎悦明さん(小野家)。初めて、坂本清馬関係者として養女ミチヱさんの姪(兄の娘)保岡典江さんが愛媛県旧一本松町からみえてくれた。

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市長(田村副市長)、議長(川渕議員)、教育長(小松生涯学習課長)、中村商工会議所(地曳専務)、中村地区労(小野会長)、中村九条の会(渡辺事務局長)、正福寺佐藤住職。

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市外から、高知市自由民権友の会(岡林会長)、神戸代表津野公男さん、東京亀田博さん、熊本下川征男さん、岡山森雄二さん。

その他の参加者には、あとで、それぞれ墓前で弔ってもらった。

献花者を代表して2人の方に挨拶をしてもらった。

神戸津野公男さん。今年10月17日、神戸で予定している第5回大逆事件サミットの実行委員会を代表して、参加呼びかけがあった。

東京亀田博さん。アナキズム、金子文子研究者で、昨年5月にも韓国秋水研究者金昌徳さんと一緒に秋水墓参にみえ、それをきっかけに、中村と韓国の交流が始まった経過について話をしてくれた。

来年は、秋水刑死110年、秋水生誕150年(明治4年生まれ)となる。これまで刑死10年刻みで記念事業をおこなっているが、来年は1月24日に加え11月7日(秋水誕生日)の少し前にも記念講演会、展示会などを行いたいと思っており、詳細を詰めていきたい。目玉は秋水二つ目の記念碑建立。これらのことを参加者のみなさんに報告した。

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記念講演会は午後2時半から、市立文化センターで。講師尾﨑清(顕彰会福会長)「坂本清馬の思い出」。約50人参加。

尾﨑さんの父の栄さん(元中村市会議員)は戦後清馬の支援をした人であり、いつも自宅に清馬が訪ねてきていた。若い清さんも清馬に声をかけられ、話を聞くこともあった。「管野須賀子は美人ではないが、当時の女性にしては珍しく表情のある人であった」とほおを赤らめた。「革命家は若死にしてはいけない」とも。

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清馬は大逆事件で死刑判決を受けたあと無期懲役に。獄中で24年間を過ごしたが、一貫して無実を主張。1961年、再審請求裁判をおこした(最終棄却)。

長い獄中生活から岩窟王のような風貌になり、周りに近寄りがたいオーラを発していたので、偏屈者として避けられていた。心を開いて話す友は少なかった。尾﨑栄さんは、その中の数少ない一人だった。会場からは「犬を連れて町を歩いているのを見かけた」「こわい人だった」との発言もあった。

会場には、清馬が書き残した直筆手記などを展示した。1964年アサヒグラフで紹介された記事など、関連図書も。

神戸からの参加者8名と、東京からの亀田博さんは、前日の23日、中村に向かう途中、高知市内にある岡林寅松と小松丑治の墓も弔ってくれた。

この二人は、高知市生まれで同じ小学校同級生だが、神戸の同じ海民病院で仕事をしていたころ、平民新聞の読書会を開いていたことで、大逆事件にひっかけられ死刑判決を受けたあと無期懲役にされた。

10月、神戸で大逆事件サミットを開くのは神戸が事件に関係しているためである。

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  岡林寅松墓          小松丑治墓

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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