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安心院

安心院=あじむ、と読む。

松本清張の小説「陸行水行」を読んだ。昭和38年に書かれた短編推理小説である。

私はこの小説のことを知らなかったが、きっかけは5月8日放送されたNHKBS「新風土記 松本清張・鉄道の旅」で紹介されたから。

清張は、小倉に住んでいた戦前の下積み時代から古代史に関心をもち、大分県安心院にたびたび出かけた。例の邪馬台国論争の舞台の一つになっていたからだという。番組では、安心院(現在は宇佐市安心院町)が出ていた。

魏志倭人伝に書かれた、朝鮮から邪馬台国に至るルートの解釈において、邪馬台国九州説、大和説など、いろんな説があることは有名である。

九州説においても、いまの地理で言えば、どこを通るのかによって、諸説あった。詳しい説明は省略するが、その中の一つに、邪馬台国に至る途中の不弥国=安心院説があった。

朝鮮 ~伊都国(福岡県朝倉郡) →奴国(大分県玖珠郡森) →不弥国(大分県宇佐郡安心院) →投馬国(大分県臼杵) →邪馬台国(宮崎、鹿児島県境)

ということ。

この説によれば、古代、朝鮮から渡ってきた海神系の民族に「阿曇(あづみ)」というのがいたらしく、「あづみ」が「あじむ」に転化したものだという。

私は就職後、最初の転勤先は大分市であり、3年半いたことがあるので、安心院というめずらしい名前は知っていた。

当時、大分県では「一村一品運動」というのに取り組んでおり、安心院はぶどうの産地化に力を入れていた。

しかし、私は安心院には行ったことはなかった。邪馬台国論争にかかわっていたことも、今まで、知らなかった。

今回、安心院が気になったのは、大分時代に縁ができた友人の一人が、いま安心院に引っ越して、養鶏業をやっており、3年前訪ねたからだ。

そこは、安心院町の妻垣という、まさに「陸行水行」の舞台になったところであった。そこには妻垣神社があり、その境内で、小説が展開する。

いまは合併で同じ宇佐市になっているが、宇佐には宇佐神宮がある。妻垣神社は宇佐神宮との関係も深く、戦前には、騰宮学館という神職養成学校もあった。

当時、全国でも、神職養成学校は、ほかに国学院(東京)、皇学館(伊勢)しかなかった。(騰宮学館は戦後廃校、他の二つはいまもある。)

番組でも紹介されていたが、合併前の安心院町では、卑弥呼祭りというのをやっていたようだ。祭りに参加した清張の写真も出ていた。

また、宇佐市の旧国鉄豊前善光寺駅から四日市まで、大分交通豊州線という軽便鉄道が走っていた(大正3年~昭和28年)ということも、今回知った。清張はこの鉄道に乗って山の中の盆地、安心院に通ったのだ。

友人に聞くと、「安心院ワイン卑弥呼」があるとか。
麦焼酎「いいちこ」の三和酒類がつくっているということだ。

大分県には、まだまだ知らないことが多い。

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コロナ政局6 専門家会議(2)

きのう20日、衆議院予算委員会で参考人質疑が行われ、新型コロナウイルスに関する政府専門家会議の脇田隆字座長(国立感染症研究所)が出席した。その模様がNHKテレビで中継され、今朝の高知新聞記事には顔写真が出ている。

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私は、この間、専門家会議では、もっぱら副座長の尾身茂氏(独立行政法人地域医療機能推進機構理事長)が記者会見や国会対応の前面に出て、座長の脇田氏の顔がさっぱりみえないことに対する疑問を先に書いた。

私の把握する限りでは、脇田座長が専門家会議を代表してこうした場に登場するのは初めてである。私のような疑問を抱く人は多いことであろうから、今後は本来座長が果たすべき役割を果たすという正常な形になったのかなと一瞬思ったが、どうもそうではないらしい。

というのは、きのうの参考人質疑に呼ばれたのは3人で、尾身氏も呼ばれていたからである。ただし、尾身氏は基本的対処方針等諮問委員会の会長として、である。(諮問委員会の役割については前回書いたので省略する。)

もう1人は、慶応大学教授で経済学者の竹森俊平氏であり、経済面での影響予測について、考えを述べていた。

なぜ、国会は、こんな人選をしたのだろうか。

コロナ問題について、広く意見を聞くというのなら、専門家会議の座長と副座長の2人(ともに医療分野)をダブって呼ぶより、教育、福祉など、ほかの分野の意見を聞いたほうがいいだろうに。

2人はどんな話をしたのか。

尾身氏は、いつものように、感染拡大、終息の見通しについて話し、緊急事態宣言を解除しても、見えない感染が続いていると考えるべき、と。

脇田氏は、もっぱらワクチン開発について述べ、有効なワクチンができるにしても年を越えるだろうし、いつになるのか予想はできない、と。脇田氏はかつてC型肝炎に有効なワクチンを開発した実績があるように、ワクチンの分野の専門家である。

2人は、それぞれ得意な分野について意見を述べており、「分業」したといえるので、納得できる面はある。

しかし、2人は、専門家会議では座長と副座長なのであるから、どちらか1人が代表して(普通なら座長)話をすればいいし、その空いた枠を医療以外の分野の人の意見を聞いたほうがよかったのではないかと思う。

それと、最近ほかに気づくことがある。

相変わらず、テレビには尾身氏ばかりが出ているが、同氏の肩書は、ずっと専門家会議の副座長と紹介されていたのに、最近は諮問委員会会長として紹介されている。

たとえば、緊急事態宣言が5月14日から39県で解除されたさいの首相記者会見に同席した尾身氏は司会者から諮問委員会会長と紹介されたし、その前後、国会に1人呼ばれたさいも、議長からそう呼ばれていた。明らかな変化である。

私のような疑問をもつ声が多く届き、副座長では格好がつかないということになったのだろうか。それとも、ほかに深い意味があるのであろうか。

尾身氏はWHOで仕事をしてきた経験を持っているし、日本では感染症対策の第一人者であるという理解で、私も納得している。今回も実質、専門家の立場で対策を仕切っているのは尾身氏であることは明らかである。

それならば、2012年新型インフルエンザ対策の有識者会議会長を尾身氏がつとめたように、今回の専門家会議座長も尾身氏がつとめれば、私があれこれ悩むこともない。

今回の専門家会議の座長をなぜ尾身氏がつとめないのか、私なりの推測は前回書いたが、本当のところを知りたい。ご意見をいただければ幸いです。

濱口雄幸生誕150年

今月は濱口雄幸生誕150年である。(誕生日は明治3年5月1日)

濱口は高知県出身で最初に首相となった人であり、髭をたくわえた、いかめしい風貌からライオン宰相と呼ばれたことなどは、以前このブログにも書いた。(2015.5.8)

きょう改めて書きたいのは、いまのコロナの状況が濱口の首相時代と似ているからである。

いまのコロナ蔓延による世界的な経済不況は、1929年の世界恐慌以来だと言われている。濱口の首相在任期間は1929年7月~1931年4月。世界大恐慌の象徴、ニューヨーク株式市場の株価大暴落は1929年10月、濱口首相就任3か月後のことである。

当時の日本は世界に先行したデフレ不況の中にあり、さらに世界からの大波をかぶった形になった。

当時、濱口内閣は国際協調、緊縮財政を基本としていたことから、世界統一の金本位制への移行を断行。しかし、これが裏目に出て、経済は混乱した。

濱口は1930年のロンドン海軍軍縮会議において軍縮案に合意したことから、軍部から反発を買い、11月4日、東京駅頭で右翼の銃弾を浴びた。その傷がもとで、1931年4月14日、命を落とした。「男子の本懐」という言葉を残して。以降、首相は若槻礼次郎、犬養毅と続く。

濱口死の5か月後の9月、日本の関東軍は満州柳条溝を爆破し、満州事変を起こす。政府も経済政策をインフレ、軍拡路線に転換。戦争の道を突き進む。(いま朝ドラ「エール」でやっている、古関裕而作曲、早稲田大学応援歌「紺碧の空」がつくられたのは、この年の6月)

濱口は、第一次大戦後、台頭してきたアメリカに対して、将来戦争をしても勝てないと考えていた。だから、国際協調、軍縮を常に基本にしていた。

しかし、世界大恐慌からの脱出の中で、あとの首相は軍拡→戦争への道を選んだ。(犬養首相は5.15事件で銃殺された。)

いまの状況に置き換えてみればいい。この間、アメリカの意を受け、日本の防衛予算(軍事費)は増加を続けている。日本はいまや軍事大国になっている。

そんなときのコロナ禍。社会経済活動は止まり、国民生活はどん底である。その救済策に政府も自治体も汲々としている。一人あたり10万円支給などが決まったが、その財源はすべて赤字国債である。将来のつけは国民に跳ね返ってくる。

こんな時こそ、軍縮である。軍事費からまわせばいい。軍事費は不要不急なもの。トランプの一声で莫大な価格の戦闘機などを買わされているというのに。

しかし、いま野党からも、誰からも、コロナ対策財源は軍事費からまわせという議論は出ない。情けないと思う。

コロナのあと、どんな日本になるのか。どんな世界になるのか、心配である。

今回、政府は反対世論の高まりに押され、検察庁定年延長法案をいったん取り下げたが、また手を変えて、出してくるだろう。

濱口雄幸がめざした軍縮は、世界大恐慌の混乱の中でつぶされ、軍拡→戦争への道へと突き進んだ。

コロナを機に、日本のいまの政権の独裁化が一層進み、憲法改悪、さらなる軍拡、アメリカと一体となった戦争への参加、という構図が現実化してくることを心配している。

コロナ政局5 専門家会議

私は、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議において、座長ではなく副座長が前面に出て発言を繰り返している(記者会見、国会対応等)ことに疑問をおぼえ、自分のFB(フェイスブック)に短く2回、書いたところ、いろんな意見(書き込み)をいただいた。

そこで、改めて、これらの意見を踏まえ、同会議の目的、委員構成、いま果たしている役割等について調べ、何が問題なのか、自分の考えを整理したので、以下に書きたい。


同会議は、政府の新型コロナウイルス感染症対策本部(本部長・安倍首相)の下に、2月14日、「医学的見地から助言等を行うため」、設置された。

構成員は12名で、この中から、座長脇田隆字氏(国立感染症研究所長)、副座長尾身茂氏(独立行政法人地域医療機能推進機構理事長)が選ばれた。他の10名は大学教授などである。名簿は政府プレス発表をごらんいただきたい。

→ 政府プレス発表 https://www.cas.go.jp/jp/influenza/senmonka_konkyo.pdf#search=%27%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E5%AF%BE%E7%AD%96%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AE%B6%E4%BC%9A%E8%AD%B0%27

専門家会議の初顔合わせは、2月16日、政府対策本部会議においてであった。すでにこの時、クルーズ船乗客に死者が出ていたことから、専門家会議の立ち上げが遅かったうえに、この会議に閣僚3名が欠席(代理出席)したことで多くの批判を浴びたことは記憶に新しいところだと思う。

その後、コロナ感染が国内外ともに急拡大し、専門家会議は頻繁に開催されている。政府への提言も多く出しており、安倍首相も「専門家会議の意見を聞いて」と繰り返しているように、政府の諸対策にこれらの提言が反映されている、ということになっている。

この間、緊急事態宣言が出され、いまも戦後最大の国家的危機という状況が続いている。安倍首相もたびたび記者会見を開いており、専門家会議代表も同席することが多い。

その際、同会議を代表して同席するのは、常識的に考えれば座長であろう。しかし、実際はこの間一貫して副座長が座っている。国会対応も副座長がおこなっている。尾身茂副座長はすっかりテレビの顔になっている。

かたや、脇田座長はいっさい顔を見ない(少なくともプレス対応では)。

なぜ、こういうことになっているのか。どんな組織においても、重要な場面では、トップが顔を出し、発言をするのが当たり前。ましてや、戦後最大の国家的危機と言われるいまの状況下である。

トップの発言は重い。だから、説得力、信頼性がある。国民も納得できる。なのに、なぜ座長は出ないのか。

これでは、国を代表して、安倍首相ではなく麻生副総理が国民に向かって訴えているのと同じだ。NO1とNO2の差は大きい。私はこのことに、ずっと不信と疑問を抱いている。

そこで、尾身茂氏の経歴を詳しく調べてみた。

1949年生まれ(70歳)、自治医大1期生で地域医療の現場に携わったあと、厚労省保険局勤務、さらにWHO(世界保健機構)で実績をあげる。同西太平洋地域事務局長をつとめ、同本部事務局長選挙に出たが僅差で落選。自治医大名誉教授。

WHOでも実績を残しているので、日本を代表する感染症対策の専門家と言えるだろう。テレビで見ても、話し方はソフトでわかりやすく、温厚そうで人あたりもいい。

一方、座長の脇田隆字氏。

1958年生まれ(61歳)、名古屋大学医学部卒後、一貫して研究畑を歩き、国立感染症研究所部長、副所長、所長。世界で初めて、C型肝炎ウイルス培養細胞政策に成功。同ワクチン開発につなげた。いわば、感染症研究所一筋の人。研究者としては、なかなかの実績を残している。

しかし、脇田氏の顔は見たことがなく発言も聞いたことがないので、これ以上の人物像はわからない。

私は前から、尾身氏は元厚生官僚だったと聞いていたので、政府とのパイプが太いだろうから、政府の意向に沿った調整にたけているから、座長を差し置いて、前面に出ているのだろうと思っていた。

しかし、今回よく調べると、座長の脇田氏がいま所属する国立感染症研究所は厚生労働省の機関そのものであることを知った。つまり、脇田氏は厚労省職員ということである。

一般的には、元職員だった尾身氏よりも現職のほうが政府とのパイプは強いだろう。しかも、感染症研究所所長は、厚労省の技官としては医務技監(事務次官級)と並んで、最高位のポストのようだ。

ということは、尾身氏が前面に出ているのは、元厚生官僚だったということが一番の理由ではなく(それも多分にあるだろうが)、WTOでも仕事をし、実績をあげており、感染症予防対策では国内では名実ともに第一人者であるからであろう。

しかも、話し方がうまく説得力もあるという資質も勘案されているように思う。前面に出る以上は、同会議の顔=広報官としての役割も大きいのだから。

ここまでは、こういうことで納得ができる。

しかし、である。

それならばそれで、尾身氏を座長にすればいいことだ。年齢も尾身氏が上だし、国際的にも名が知られ、WTOにも深いパイプがあるのなら、どうみても座長には尾身氏のほうが適任ではないか。そうすれば座りもいいし、私だけでなく、誰もがすっきりするだろう。

実際、今回調べたところ、2012年、いまと同じような新型インフルエンザが問題になった時、当時の民主党政権でも同対策本部を設置し、その下に「有識者会議」を置いた。その有識者会議の会長は尾身氏であった。

当時、新型インフルエンザ等対策措置法がつくられ、緊急事態宣言を出すことができるようにした。宣言を出す場合は、有識者会議の下に設けられた「基本的対処方針等諮問委員会」に諮らなければならないこととされた。尾身氏はこちらのほうの委員長でもあった。

今回、初めて出された緊急事態宣言は、新型インフルエンザ等対策措置法をバタバタと一部改正して適用したことは、つい最近のことである。この際、この法律に基づく基本的対処方針等諮問委員会は、新型コロナ対応についても対象とされ、そのままの機能が残ることになった。この諮問委員会の委員長は現在も尾身氏のままある。

つまり、ややこしいが、現在、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の座長は脇田氏であるが、基本的対処方針等諮問委員会の委員長は尾身氏という、トライアングルの関係になっているということである。

ここで、結論である。

なぜ、こんな経緯があり、尾身氏と言う最適任者がいるのに、脇田氏を今回の座長にしたのか。これが一番の問題であると思う。

座長は科学的、専門的意見を言う場であるから、極力政府色の薄い人のほうがいい。その意味でも、尾身氏のほうが適任だろうに。

政府(厚労省)が、それほどまでにして脇田氏を座長に置いた理由として、私が考えるのは、国立感染症研究所の権威を保ちたいということだと思う。

戦前、日本陸軍では731部隊に代表されように、細菌戦部隊を育成していた。細菌の研究は戦争に勝つという、国家の命運をかけた事業であった。戦後の昭和22年設立された同研究所の前身は、こうした流れも受け継いでいたのではないか。

戦後の感染症・防疫行政において、常に同研究所は全国津々浦々の保健所等をすそ野に置くヒエラルキーの頂上にあった。その権威は絶大なものがあるのだろう。所長が厚労事務次官と同格ということがそれを表わしている。

新型インフルエンザの時は、尾身氏を有識者会議のトップにおいているではないかといわれるかもしれないが、その時と今回では、事の重大さがまるで違うからだと思う。

国立感染症研究所の権威が高いということが、今回のコロナ対策で大きな足かせになったといえるのは、PCR検査システムである。

日本は医療崩壊を防ぐということを最大の理由に、クラスター対策に重点を絞った。だから、PCR検査数が極端に少ない。

これについて、国の内外から批判が沸騰した(している)ことから、最近になってやっと検査を増やす方針に転換した。しかし、いつまでたっても検査数は増えない。

その原因は、国立感染症研究所を頂上に置く日本の検査システムにあるといえるのではないか。それは、検査データをすべて感染研究所が把握し独占したい、基本的に民間等には検査をさせない、という長年しみついたシステムは一朝一夕に変えられるものではない。かつて細菌研究は軍事機密であった。

その結果がいまである。

見かけの感染確認数は5月になって徐々に減少してきている。しかし、検査数が圧倒的に少ない以上、実際の感染者数はわからない。実際は10倍の感染者がいるだろうという専門家の発言もある。実態は、これからもずっとわからない。

正確なデータがない以上、効果的な対策の打ちようがない。海外からの不信もおさまらない。来年のオリンピックも絶望だろう。

最近、尾身氏の顔色がとみに悪くなっている。相当に疲れているようだ。国家の命運がかかった重責を負わされているのだから、心労は並大抵ではないだろう。

それでも、自らが専門家会議の座長として、仕切れるのならまだましであり、やりがいもあるかもしれない。

しかし、記者会見等の前面には出るものの、お目付け役のように実際の座長(責任者)は別におり、それが国の機関の人ということならば、国の意向との板挟みで、調整に多大なエネルギーがいるだろう。

たとえば、オリンピックの本年開催と言う国の事情があったため、初期の対応が遅れた(と私は思う)背景には、そういうことであったのではないか。専門家会議としては、もっと早く手を打ちたかったのではないかと思う。

最後の結論。

専門家会議の座長に国の機関である国立感染症研究所の所長を置いているということは、同会議が実質的には国と一体であるということであり、本来の役割を果たせない。

この問題は、いまの国家的危機からの脱却を難しくしている、日本のコロナ対策の象徴である。

非戦の原点

わが地元の先輩幸徳秋水は日露戦争に反対し非戦論を唱えた。(平民新聞)

吾人は飽まで戦争を否認す 
之を道徳に見て恐る可きの罪悪也 
之を政治に見て恐る可きの害毒也 
之を経済に見て恐る可きの損失也 
社会の正義は之が為めに破壊され 
萬人の利益は之が為めに蹂躙せらる 
吾人は飽まで戦争を否認し 
之が防止を絶叫せざる可らず 

秋水は人間の自由・平等・博愛を掲げたたかったが、明治国家による思想弾圧(大逆事件)で抹殺された。「百年ののち誰か私に代わって言ってくれる者があるであろう」の言葉を残して。

その百年後の2011年、私は市長であったことから、四万十市をあげて幸徳秋水刑死百周年記念事業に取り組んだ。市長退任後も幸徳秋水を顕彰する会事務局長を務めている。

秋水たちが命をかけたたたかいは、戦後日本国憲法として結実した。永久平和、戦争放棄の九条は非戦の原点である。

しかし、いま再び国家権力が牙をむき出し、九条を亡きものにしようとしている。

私は非戦の原点を守るために「絶叫」を続ける。


元四万十市長  田中全
全国首長九条の会ニュース 第4号

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コロナ政局4 スペイン風邪は3波3年続いた。

きょうで4月が終わる。新型コロナの状況は、ますますひどくなっている。

きのうの休日(昭和の日)、中村に車で出かけたが、飲食関係の店はほとんど全部閉まっている。先週まで開いていたコメダ珈琲店、花まるうどん、肉そばラーメンも。マルナカスーパーは開いていたが、休憩・喫茶コーナーにはロープが張られていた。マクドナルド、ミスタードーナツは、テイクアウトだけ。

GWの初日だというのに、車も少なかった。三密を避け、河川敷を散歩する人が目立った。家の中にずっといることができないのは誰も同じだ。

休日なのに国会は開いていた。コロナ対策の補正予算を早く通さなければならないので、野党も協力。ただし、論戦は激しくやっている。

いま社会が止まっている。こんな経験はいまの日本人のだれもしていない。空から爆弾が降ってきて日本が戦争に負けた時も人は動いていた。

いまと同じような状況といえば、大正7年(1918年)のスペイン風邪大流行の時だ。しかし、その記録は正確には残っていない。その時、中村の町がどういう状況だったのか。先に幸徳秋水の従弟で中村の医師安岡友衛の妻がスペイン風邪で命を落としたことは書いたが、その他の事例はわからない。

当時は、コレラや赤痢など、毎年のようにいろんな疫病が流行していた。スペイン風邪は犠牲者が多かったとはいえ、その中の一つであり、さして詳しく記録に残すほどでもなかったということのようだ。防疫体制が進んだいまとは意識・感覚が異なるのだ。

そうした中、土佐史談会副会長の公文豪さんが2012年12月「土佐史談」251号に書いた論文「スペイン・インフルエンザと高知県」は当時の少ない記録、新聞記事等から調査したもので、貴重である。

→ http://tosashidankai.com/image/251supeinnkaze.pdf?fbclid=IwAR0r1Sf6V-IiR6AoxD5Ha0jbyNhEpH7jQNRx2BLt5NPrxW_B_0gIS0LxAkk

スペイン風邪では世界人口の三、四分の一がかかり、日本では約40万人が死亡したと言われている。しかし、正確な数字データはない。

高知県では当時の内務省衛生局の記録では死者924人とされているが、歴史家速水融の推定では3,410人であり、幅が大きい。いずれにせよ、いまよりひどい状況であった。公文さんは、当時の新聞などでその状況を調べている。

学校、飲食店などがほとんど休んだのは、いまと同じ。違うのは、

1、 軍隊(高知44連隊)1600人中1500人が罹患。演習もできず。
2、 新聞(土陽、高知)の紙面が大幅縮小。最悪2ページに。
3、 郵便局で電報の受発信が止まった。
4、 警察派出所に警官がいなくなった。
5、 裁判所では民事、刑事とも公判が開けなくなった。
6、 土電の運転が日に数本になった。
7、 監獄の囚人にも感染拡大。
8、棺桶がなくなり、値段が倍になった。35円→6,70円。

いまより深刻な状況だったのがわかる。宮尾登美子の小説「櫂」には、貧民街に特に蔓延したと書かれている。

スペイン風邪は大正7年が最悪であったが、その後3波、3年にわった。時間がたてば免疫ができるので、罹患者は少なくなるが、逆に致死率は高くなった。ウイルスが強大化するためだ。

歴史は繰り返す。いまの新型コロナも、いったん夏ごろには落ち着くかもしれないが、さらに強いウイルスとなって、2波、3波が来ることは予想しておかなければならない。

あと2,3年は続く。来年に延期されたオリンピックは、またダメだろう。オリンピックどころではない。やっかいな時に、やっかいなものを、もってきたものだ。

いまみんな体調がおかしくなっているが、この状況は続く。コロナとは長いおつきあい。イライラするよりも、早く、生活ををいまの状況に慣らせたほうがいい。

豊ノ島関 ありがとう

大相撲の豊ノ島関が引退した。ご苦労様でしたと、ねぎらいたい。

地元を長く離れていた私は、朝潮、土佐の海など、高知県出身力士を応援してきた。中でも、豊ノ島は同じ幡多(宿毛)出身ということで、ぐっと親近感が増し、特に力が入った。

豊ノ島の本名は梶原大樹。父親の一臣さんは私の高校の1年後輩だと知ったことで、さらに応援に力が入った。

私は2004~2008年、大阪に勤務していたころ、高知県人会に入っていた。そのころ、豊ノ島は十両から幕内に上がってきたので、県人会で豊ノ島後援会をつくった。会長経営の土佐料理屋で「激勝会」と称して激励会を開き、なんばの大阪体育館にも応援に出かけた。

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豊ノ島が所属している時津風部屋は、春場所は大阪市内の八王子神社に陣を張っていた。八王子神社は私の住んでいた家の近所だったので、稽古のもようも見に行った。

激勝会では、豊ノ島は力士にしてはめずらしく、酒が飲めなかったが、ニコニコして、みんなときさくに話してくれた。

私が市長になった直後、宿毛に帰省したさいには、市役所に挨拶に立ち寄ってくれた。私は、宿毛の秋沢ホテルで開かれた、元歌手沙帆さんとの結婚報告会にも出席させてもらった。

当時の宿毛の中西市長が、豊ノ島のおかげで、全国の皆さんが宿毛を「スクモ」と読んでくれるようになったと、喜んでいたことを思い出す。

豊ノ島の活躍のピークは、14勝1敗で横綱白鵬と優勝決定戦をたたかった2010年11月場所であった。あの時は、本当に優勝するかと思った。

その後は、ケガもあり、幕下まで落ちたこともあったが、なんとか幕内に復帰した。しかし、また幕下に落ち、ついに力尽きた。

36歳と言えば、まだまだ若いが、相撲の世界では限界であり、仕方がないだろう。今後は井筒親方として後進の指導にあたるそうだ。

この間、郷土の誇りとして、みんなを楽しませてくれたことに、お礼を言いたい。

地元で慰労会を開いてやればいいのだろうが、コロナ蔓延の現状では、申し訳ないが、とても無理であろう。

その分、心から言いたい、ありがとう豊ノ島。

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コロナ政局3 韓国に学ぼう

新型コロナで、志村けんに続いて女優の岡江久美子もきのう亡くなった。PCR検査を受けられず自宅で待機していたら体調が急変、大学病院に緊急入院したが間に合わなかった。

また、埼玉県でも、自宅待機中に、男性二人が死亡した。

こうした事態は急激に体調変化するという、新型コロナの恐ろしさを見せつけているし、日本政府がとってきたこれまでの対策の基本が間違っていたことをはっきり示している。

日本では医療崩壊を防ぐためという名目で、PCR検査を抑制し、少々熱が出ても自宅で待機をさせてきた。クラスターを発見し、個別撃破することを優先したためだ。

すでに市中感染が広まっている日本では、もはや遅いと思われるが、今朝の報道によると、政府は軽症者でもホテルなど、指定した施設に隔離することに方針転換したようだ。

この点、韓国の対策は正しかった。日本より早くにコロナ感染が広まったが、まず検査優先で、徹底したPCR検査を行い、広く感染者を見つけ出し、いちはやく借り上げたホテルや国の施設などに隔離した。

こうした対策が功を奏し、韓国では現時点でコロナ感染はほぼ終息している。あれだけ、急速に感染者が増えたのに、いまでは日本のほうがその数が上回っている。韓国では、5月からは、プロ野球も始まる(当面無観客ではあるが)という。

4月15日行われた韓国総選挙では、こうした対策が評価をされ、文在寅大統領の与党側(共に民主党)が圧勝した。

私は与党側が勝つことを期待していたので、よかったと思う。韓国の人たちは賢明な選択をしたと思う。

しかし、今回思うのは、選挙結果よりも、コロナが終息されつつあったとはいえ、こんな危なっかしい時に、徹底した感染予防対策を講じたうえで、選挙をやりきったことがすばらしい。

しかも、投票率は前回から8.2ポイント上がって66.2%になった。驚きである。コロナ感染という国家的危機の中で、国のいまを託す政権はどちらがいいか、与野党支持者を問わず、国民全員が真剣に考えた結果である。国民の危機管理意識が高かったということだ。

強い発信力、求心力をもつトップがいたことも幸いしたのだろう。

いまの日本ではこんなこと考えられないことである。これから先、少々落ち着いてきたとしても、これだけ完璧な選挙などできっこない。何よりも違うのは、トップに求心力がないことだ。

それにしても、いま日本では、韓国のこうしたコロナ終息の状況が報道されることはほとんどない。1,2か月前、日本ではまだ感染者が少なく、韓国では急増しているころは、さかんに韓国の悲惨な状況が流れていた。

それを見て、日本は対策がうまくいっているので、あんなひどいことにはならないだろうというような満足感のようなものがあった。「日本のほうがすぐれている」という潜在意識である。

ところが、いま事態は逆転している。いまこそ、韓国に学ばなければならないのに、とたんに韓国の報道がなくなった。

日本は遅ればせながら、PCR検査拡大と感染者早期隔離という韓国と同じやり方に方針を転換したのだから、素直に韓国に学べばいい。韓国の成功事例をどんどん報道すればいい。

それができないのは、歴史的に培われてきた、韓国、朝鮮への差別偏見意識から現政権が脱していないどころか、最近の従軍慰安婦、徴用工問題にみられるように、逆に差別偏見をあおっているという背景があるからだ。

私は昨年7月、韓国慶聞市で開かれた金子文子追悼式典するために初めて韓国に行って来た。そこで、幾多の民族的試練を経て来た韓国の人たちの心の広さと深さを知った。そんな民族的底力が今回の危機にさいして発揮されたのだと思う。

金子文子追悼式で知り合った韓国日報(韓国五大紙の一つ)の金宰鉉記者から、いまの日本の新型コロナの状況について電話取材を受けて、以上のような話をしたところ、こんな記事になったと送ってくれた。(4月18日付韓国日報記事)

→ https://www.hankookilbo.com/News/Read/202004171241386302?NClass=HI01

日本はいさぎよく韓国に学ばなければならない。

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高知民報2020.5.3



スペイン風邪と安岡友衛

いまコロナで世の中の動きが止まっている。4月15日、厚生労働省クラスター対策班がコロナ対策を何もしなかったならば42万人の死者が出るであろうという推計数字を発表した。

実際は各種対策を講じているので、ここまでの死者が出ることはないだろうが、本気で取り組まないと大変なことになるという警告である。

今回と同じパンデミックの先例にスペイン風邪がある。今から100年前の1918年(大正7)~1921年(大正10)年、世界で猛威をふるった。

スペイン風邪には当時の世界人口の三分の一がかかり、4,5千万人が死亡したとも言われているが、当時は第一次世界大戦の時期であり、参戦国は情報統制をしたことから、正確な数字はわかっていない。

最初の発生はアメリカ軍だと言われている。当時、スペインは中立国で情報を公開したので、同国の被害がクローズアップされ、不名誉な名前が付けられたようだ。

日本では約40万人が死亡したとされている。今回の推計42万人とほぼ同じ数字だ。流行は3波に及んだ。当然ながら、高知県でも多数の死者が出た。

高知新聞4月14日の「声ひろば」に高知市の76歳の男性が、大正7年11月5日、祖父37歳がスペイン風邪で亡くなり、当時4歳だった父たち残された家族は困窮生活を余儀なくされた、と書いている。

当時、中村の医師であった安岡友衛も妻瀧江をスペイン風邪で失っている。友衛は幸徳秋水より2歳下(明治6年7月1日生)の従弟(いとこ)。父は安岡良亮の弟良哲、母は秋水の母多治の妹嘉弥。

明治41年5月、秋水最後の帰省中、岡山の森近運平が中村に訪ねてきたさい、幸徳家親戚を交えて撮った記念写真の中に友衛も入っている。(前列右より、友衛、運平、秋水)

前列右 安岡友衛、森近運平、秋水 明治41年5月中村で

同じく秋水の従妹岡崎輝(旧姓小野)が戦後書いた「従兄秋水の思出」によれば、秋水が東京で最初の結婚をしたのは、友衛も医学の勉強のために東京に出ていた頃であった。

秋水は相手(西村ルイ)が気に入らず、すぐに実家の福島県郡山に帰した。その時、送り届けるために同行させられたのが友衛であり、あとで輝の祖母安岡千賀(良亮の妻)から「なんでそんな怪しからん使いに行つたか」と叱られた。

友衛は医師として秋水母多治の最期を看取った。友衛は秋水と同じ木戸門下生で、漢文の才もあった。秋水は獄中から母あてに送った有名な漢詩「七十阿嬢泣倚門」の意味は友衛に聞きくようにと手紙に書いた。友衛はその通り母に教えてやった。

友衛の往診には刑事の尾行がついた。夜の往診に出る時、娘がこわくないのかと聞かれ、お巡りさんも一緒だから平気だよと笑ったという。

岡崎輝は晩年、中村の郷土史家上岡正五郎氏にあてた手紙に、「(友衛は)立派な人格をそなえていました。私は身辺の人のうち最も尊敬したのは(安岡)秀夫でも秋水でもなく友衛兄でした」と書いている。

友衛の妻瀧江がスペイン風邪で命を落としたのは6人目の子を出産した直後。医者の友衛は、いろんな措置を講じようとしたが、あまりにも急なことで間に合わなかった。瀧江37歳。高知新聞投書の方の祖父と同じ大正7年11月の30日であった。

この時生まれた和子さんは、のちに初代中村市長になった森山正氏に嫁いだ。

友衛自身もその3年後、大正10年10月30日、喉頭ガンで没。51歳であった。

以上の話は、安岡友衛の孫の岡添眞子さん(友衛次女惇子さんの娘、中村在住)から聞いたものである。

裁判所の塀と秋水桜

幸徳秋水の墓がある浄土宗正福寺の墓地は裁判所と隣接しており、境界には裁判所が建てた塀がある。この塀が3月末、取り壊され、新しく作り替えられた。

正福寺は、本ブログ2019.12.28にも書いたように、承元元年(1207)建立、法然ゆかりの古い寺である。

勤皇討幕運動がさかんだった当地では、明治になると廃仏毀釈が横行。そのあおりを受け、中村の他の多くの寺同様、明治4年、正福寺も廃寺になった。

明治9年、広い本堂跡には中村区裁判所(検察部併設)がつくられた。現在は高知地方裁判所中村支部、同検察局中村支部になっている。

墓地の場所はそのまま残り、明治36年、寺が再興されたさい、新しい本堂はいまある位置(高知県幡多総合庁舎隣)につくられた。

秋水刑死の3か月後、明治44年4月、堺利彦が幸徳家慰問に来た際、京都丹波の岩崎革也に報告した葉書は裁判所の写真が載った絵葉書であり、当時の裁判所の様子がうかがえる。

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墓と裁判所の境には、戦後の写真によれば、木が植えられていたようだが、昭和54年、裁判所、検察庁がいまの庁舎に建て替えられたさい、ブロックを積み上げた塀が作られた。

しかし、経年劣化と次の南海地震対策として、墓入り口付近の検察庁敷地の塀が昨年9月、秋水、清馬墓に面した裁判所敷地の塀がこの3月、樹脂製のフェンスに替わった。

幸徳家の墓が正福寺につくられたのは、裁判所ができるずっと前の江戸中期であるが、のちに秋水が不義不当な暗黒裁判によって処刑され、ここに眠っていることを考えると、断ちがたい因縁を感じる。

秋水墓は禁断の墓とされ、日本敗戦まで、参拝者は裁判所窓越しに監視された。秋水は死んでも安らかに眠ることを許されなかった。

今では、いつ植えられたのかわらないが、裁判所庭の桜の大木が秋水、清馬に詫びるように枝を伸ばしている。恩讐を超えたように花を咲かせるこの桜を私たちは「秋水桜」と呼んでいる。

いつか塀もなくなってほしいと思う。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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