関東大震災

きょうから9月。昼間は暑さが続いているが、朝晩はめっきり秋らしくなった。

9月1日は、大正12年(1923)、関東大震災がおこった日であり、「防災の日」とされており、こちらでも午前10時にサイレンが鳴り、地震防災訓練が行われた。

関東大震災では、約10万人の死者を出した。直下型地震の典型であり、南海トラフ地震と違い、今後いつどこで起こるか予想しづらいが、94年前を教訓にした万全の対策が必要である。

教訓には、流言飛語に惑わされないことがある。最初の揺れのあとも余震が続くので、みんな恐怖と不安に陥る。そのさい、根拠のない噂やデマがどこからともなく流れる。普段は相手にしないようなたわいもないことでも、みんな動揺してしまう。

関東大震災では、政府が戒厳令を出した。政府に対する不満が高まっていた時期であったことから、地震に乗じて、社会混乱がおこるのではないかと、過剰反応したのである。

不満の矛先が政府に向けられることを恐れた政府は、警察を動かし、住民に自警団をつくらせたうえで、朝鮮人が暴動、井戸に毒を入れている、などのデマを流した。

これを信じた自警団は多くの朝鮮人を襲撃、虐殺した。警察は、そのことによる罪を問わず、その後もうやむやにしてきたことから、犠牲者の実数ははっきりしないが、いろんな証言から事実であることは間違いない。

当時、作家の徳富蘆花は東京郊外の千歳村粕谷(現世田谷区)で「美的百姓」をしていた。最近読んだ蘆花「みみずのたはごと」の中に、こんなことを書いていた。

「 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮長の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。 」

東京都墨田区の公園では、毎年9月1日、朝鮮人犠牲者追悼式が行われており、去年までは都知事(石原慎太郎知事も)から追悼文が届けられていた。小池百合子現知事も昨年は届けた。しかし、今年からこれをとりやめた。

理由は、「国籍を問わず、震災で犠牲になった方々への追悼は別に行っているから」(9月1日付高知新聞)、だという。自然災害で犠牲になった者と、人の手で殺された者も同じだという考え方である。

小池知事は安倍首相と同じく日本会議のメンバーである。知事の本質を表している。

人間の不安に乗じたやり方は、北朝鮮ミサイル対応でも共通している。北朝鮮の蛮行は早くやめさせなければならないのは当然であるが、過度に反応し、国民を余計な不安に陥れることによって、国内政治に利用しようという魂胆は現に戒めなければならない。

ミサイルが日本の「上空」を飛び超えたといっても、国際宇宙ステーションの軌道よりも高い高度である。これに対しサイレンを鳴らして、避難行動をとれというのは、地球を回るロケットが落ちてくるかもしれないので、隠れろというのと同じようなものである。冷静に考えれば、だれでもわかることである。

北朝鮮の蛮行を早くやめさせることと、現にいまアメリカをけん制するために飛ばしていることが明らかなミサイルへの個別対応は別のものであるべきである。

関東大震災の日に、思う。

真念庵

このほど土佐清水市市野瀬にある四国遍路番外札所といわれる真念庵にはじめて立ち寄った。

いま四国遍路ブームであるが、これが一般の間で広く行われるようになったのは江戸中期から。その火付け役になったのが当時の高野聖の真念である。「四国遍路の父」とも言われている。

真念は自身20数回巡礼を行い、遍路道の整備に務めた。巡礼者が歩きやすいように道標の石をあちこちに置いた。

88カ所の札所の中で、37番岩本寺(窪川)、38番金剛福寺(足摺)、39番延光寺(平田)の間は、一番距離が長い難所である(37~38間は87キロ)。しかも38番から39番に向かうさいは、打ち戻しと言って、途中まで同じ道を戻ってくることになる。

そこで打ち戻しの終点であり、3つの札所を△点とすればちょうどその中心軸にあたる地点に大師堂(真念庵)を建てた。天和年間(1681~83)のことである。

場所は伊豆田坂トンネルを清水側に下りた三叉路を三原村方面に向かったすぐのところ。私の家から車で15分くらい。こんな近くにあるとは。はずかしながら、つい最近まで、私は真念庵のことを知らなかった。

遍路古道である石段を上った林の中の道沿いに古いお堂があった。これが真念庵。過去には遍路宿を兼ねており、38番から打ち戻るまで荷物も預かっていたという。いまは、カギがかかっているが、中には仏像、位牌なども残っているという。

お堂の前には、88体の地蔵がびっしり並んでいた。古色蒼然した雰囲気は、いかにも修行のための道そのものだ。多くの人で賑わう札所よりも、ずっと厳粛なものを体感することができる。すぐ近くの民家が納経所になっている。

遍路ガイドブックにも真念庵は載っているらしいが、正式の札所ではないことから、いまの遍路さんのどれだけが立ち寄っているのだろうか。俳人の黛まどかさんは今年5月ここに立ち寄っている。

ぜひ、多くの人に立ち寄ってもらいたい。
そして、古くなっているお堂が早く新しく立て直されることを願いたい。

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ミサイル冷静対応を

北朝鮮よりも日本政府の過剰反応のほうが恐ろしい。

仮に北朝鮮がグアムに向けミサイルを発射したなら、アメリカの反撃にあい、北朝鮮はたちどころに消滅する。そんなことは北朝鮮自身が一番わかっている。

北朝鮮はアメリカを交渉の場に引き出すのが狙いであり、孤立した悪ガキの強がりパフォーマンスに過ぎない。政府もそう見ているはずだ。

なにの、この間、政府は意図的に危機感をあおりたて続けている。これ幸いと、まるで攻撃を望んでいるように見える。

国民の目を外に向ければ、自衛隊日報問題も森友・加計問題も吹っ飛んでしまうからだろう。国内不満を抑えるために危機を演出していることでは、北朝鮮と同じである。

高知県には自衛隊がPAC3(地対空誘導弾パトリオット)を配備した。県もミサイル落下時の行動と称する警告を出し、四万十市はこれに基づき、毎日昼食時にマイクで放送を流し続けている。ここまでやるのか。

平和を誓うべき8月。おびえる子供たちにはどう説明するのか。空襲警報教育でもあるまい。無用な不安と混乱を与えてはならない。

韓国は粛々と対応している。日本も国、県、市ともに冷静な対応を望む。

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 高知新聞2017.8.24 

戦争遺跡

第21回戦争遺跡保存全国シンポジウムが8月19、20日、高知市で開かれた。地元ということで、初めて参加した。

シンポは戦争遺跡保存全国ネットワーク(43団体加盟)が毎年開いているもので、高知県では第4回が南国市で開かれて以来2回目の開催。今回は全国から27団体、170名が参加していた。

初日は、記念講演(公文豪、植木枝盛憲法草案と日本国憲法)、基調報告(十菱駿武)、地域報告(愛知県豊川海軍工廠跡地、高知44連隊弾薬倉庫跡地)、夜の交流会

2日目は、3つの分科会があり、私は2つの分科会にかけもち参加。以下の活動報告を聞いた。

① 高知の本土決戦陣地トーチカ
② 浅川地下壕(東京都八王子市)
③ 貝山地下壕(横須賀市)
④ 女川山防空監視哨(高知県越知町)
⑤ 731部隊遺跡(世界遺産に登録する会)

いずれも、それぞれの地域にある戦争遺産を保存し、戦争の悲惨さを後世に伝えることによって、二度と戦争をしてはならないという警鐘を鳴らすものであり、地道な取り組みが行われていることを、あらためて知った。

高知県内の戦争遺跡は、太平洋戦争末期、本土決戦に向けて急ごしらえされたものが多い。いまの高知空港はもとの海軍飛行場であり、その周辺の南国市、香南市に集中している。戦闘機を隠す掩体は空港付近に7基残っている。トーチカ跡も最近次々発見されている。

これらは飛行場など軍施設を防御するためのものであって、決して国民を守るためのものでなかったことで共通している。

南国市周辺に比べると、四万十市にはそのような戦争遺跡は少ない。市内に、基地など軍施設がなかったためである。しかし、爆撃から身を守るための防空壕はいたるところにつくられた。地元の実崎にも残っていることが最近わかった。

地元の氏神様である実崎天満宮は、四万十川べりの階段を上った山の上にある。この天満宮社殿脇の山の斜面に洞穴が3つある。横1m、奥行き2mくらい。高さは半分以上土に埋もれているので、もとは2mくらいあったものと思われる。

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これまで気にもならなかったが、今年の8月6日、天満宮夏祭り行事で出向いたさい、オヤ?と気づいた。同行した先輩に聞くと、イモ坪ではないかという。しかし、周りは山であり、芋畑はない。かといって、防空壕にしては、小さいし、付近に住家はない。ならば、祭祀に使った穴か?

はっきりと証言できる古老は、もう地区にはいない。しかし、年配者の何人かに聞いたところ、あの穴はだいぶ以前からあった、やはり防空壕だろう。穴が小さいのは、祭祀中の神主などが緊急時に使うためのものだろう、ということになった。

実崎には、かつて爆弾池もあった。昭和20年7月24日朝、米軍B29が突然1機飛来し、爆弾4個を落とした。幸い、田んぼの中に落ちたことと、その日は田役による道の整備で田んぼに出ている者はいなかったので、人的被害はなかったということを、生前父が話していた。

しかし、同じB29は、安並の田んぼにも2発の爆弾を落とし、農作業に出ていた夫婦2人が犠牲になった。

実崎の爆弾跡は直系15mほどの池になり、「バクダン」と呼んでいた。私が子どものころは、この「バクダン」で鮒を釣っていた。池は比較的最近まで残っていたが、田んぼ所有者が埋めてしまったので、いまはその痕跡はないが、どのあたりであったかはわかる。

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戦争遺跡は、われわれの身近なところにもある。
戦争の記憶を風化させないためにも、できるだけ保存し、後世に伝えていきたいものである。

弾道ミサイル お芝居

北朝鮮よりも、日本政府の異常な反応のほうが、ずっと怖しい。

孤立した悪ガキの強がりに便乗して、危機感をあおり、国内矛盾から目をそらせるやり方。一番喜んでいるのは安倍首相であろう。

対外危機をあおることによって、有無を言わせず国論を誘導するやり方は万国共通の歴史である。日露戦争しかり、鬼畜米英の太平洋戦争しかり、最近ではイラク戦争しかり(大量破壊兵器はなかった)である。

北朝鮮の国内矛盾はもう限界に達しているのであろう。ミサイル発射実験を繰り返すのは、第一には、国民の不満を抑え込むための強権誇示であり、第二には、最強国アメリカとの取引によって実質援助をもらうためである、と思う。

仮に、アメリカに向けて本当にミサイルを発射すれば、ただちにアメリカの反撃にあい、たちどころに北朝鮮は崩壊する。そんなことは、金正恩自身が一番よくわかっている。

北朝鮮の子供じみたパフォーマンスは無視すればいい。野良犬の遠吠えだって、放っておけば、そのうち静かになる。反応すれば、相手が図に乗るだけである。

韓国はさすが冷静である。本来ならば、韓国のほうが怖いはずである。しかし、長年の経験から、隣国のやり方を熟知しているので、「またか」と思っている。

今回は、具体的にグアムを標的にすると言い、飛行ルートとして、島根、広島、高知の名前が出たため、これ幸いにと、自衛隊がPAC3(地対空誘導弾)を配備した。

高知県にいたっては、「ミサイル落下時には直ちに、頑丈な建物に避難するか、近くに建物がなければ物陰に身を隠す、地面に伏せて頭部を守るなどの行動をとってください」とする、県民向けの警告を出した。

これに基づき、四万十市では、昼食時間帯に、マイク放送を流している。さながら「空襲警報発令」であり、ぞっとする。

そこまでやるのか。そんなことよりも、確実にやってくる南海地震対策や、無限に被害が広がる原発事故対策(撤去しかない)のほうを、真剣に取り組んでほしい。

それでも「万一の場合」に備えた準備はしておく必要があるという人も多くいるかもしれない。

しかし、重要なのは武力によらない方法で、北朝鮮を封じ込めていくことである。関係諸国の包囲網、それは対話である。韓国はこの路線を堅持している。

しかし、安倍首相は「対話より圧力」と言って、さかんに対立をあおっている。対話への努力などする気はサラサラない。拉致問題への取り組みが一向に進まないのはその表れである。

金正恩と安倍晋三、「危機」がないと困る二人の利害は共通している。裏取引があるのではないかと疑いたくなるほどである。

政府の広報機関に墜したNHKも連日トップニュースであおっている。国の切実な問題である自衛隊日報隠蔽、森友・加計はそっちのけ。

今回の子供じみたお芝居を真顔で演ずる政府首脳部は、たいした役者であるが、私には滑稽な猿芝居に見える。

しかし、これを笑ってすませては、大変なことになる。歴史は繰り返す。明治以降の日本がたどった戦争への道は、このようなやり方でつくられていったのだろう。いま政府の対応を公然と批判しにくい重苦しさを感じる。

きょうは8月15日終戦の日。

旧暦と新暦

きょうからお盆である。

地元実崎では、この1年間に亡くなり初盆を迎える家にはお供え物をもって手をあわせに行く習慣になっている。今年は2人であった。

隣部落の間崎に住んでいた従姉も初盆にあたるため、行こうと思ったが、間崎は旧暦でお盆をしているので、9月4日(初日)に来てほしいと言われた。

そういえば、間崎の伝統行事、大文字の送り火も毎年旧暦の7月16日に合わせてやっている。今年は9月6日(最終日)である。各家のお盆行事も大文字に合わせているので、お坊さんもその日に来るという。

なるほどそういうことかと納得したが、恥ずかしながら、今になって初めて知った。

中村の一條さんも、不破の八幡さんも、以前はすべて旧暦で行っていたが、戦後、新暦に移行してからは、お祭りの日を固定している。かつての伝統行事は、いまはほとんどそうである。

本家、京都の大文字送り火にしても、伝統よりも観光優先で、いまは毎年8月16日に決まっている。

その意味では、中村の大文字送り火はいまでも旧暦でおこない、伝統を守り続けているのは、すばらしいことである。その地元の間崎の各家もそれに従っている。これもさらにすばらしいことであると思う 。

いまのわれわれは新暦カレンダーに縛られている。しかし、それでいて、立春、立夏、立春、立冬などの旧暦を基にした二十四節気は、いまでも生きており、結構耳にする。

そのギャップはわずらわしいようでもあるが、こころに遊びというか、余裕を与えてくれるようで、悪い感じはしない。花鳥風月をめでる日本人のDNAを受け継いでいる証であろう。

わが実崎の同姓の家が集まる田中先祖講も毎年旧暦の10月9日と決まっている。どんな理由によるものかはわからないが、宮崎、乾、山本なども別の旧暦の日に集まっている。

新暦がすべてではない。
何事も画一的、固定観念で見てはいけないように、こころと頭の中に、もう一つのカレンダーをもつことも悪くはないと思う。

台風の恵み

台風5号は無事去った。迷走台風でこの1週間やきもきしたが、雨風ともさほどではなく、大山鳴動して・・・高知県内ではけが人一人も出なかった。学校も夏休み期間中のため、影響がなかった。

私は家の前の畑で野菜をつくっているため、風で倒されることや、水に浸かることを心配していたので、ほっとしている。去年は、だいぶ倒された。

だから、いまは台風が近づくと、厄介なものが来たと思っている。しかし、子どものころは、そうではなかった。

台風が近づくと、わくわくした。まず一番は、学校が休みになるから。台風のコースがそれた時は、がっかりした。

二番は、遊びが増えるから。必ず、風車を作った。竹を割って、ナイフでプロペラを削った。キリで穴をあけ芯棒を差し込む。それを竹筒に入れると出来上がり。

堤防にあがり、風に向ければ風車はブンブン回る。ブルブル握る手に伝わる感触がたまらなかった。

濁流あふれる川も迫力があった。スリル満点で、胸が高鳴った。

台風が去ったあとの川の淵では、チヌがたくさん釣れた。大人は、竹の先にミミズと針をたくさんつけた「ズズグリ」というやり方で、ウナギをたくさん引っ掛けていた。田んぼでは、逃げ場を失った大きな鯉をつかまえた。

台風が近づくと、大人たちは稲の刈り取りを急いだり、川舟が流されないよう岸に縛り付けたり、大変だったろうけれども、そんな大人たちも結構台風を楽しんでいるようにも見えた。上流からは、材木や生活道具などの一部も流れてきた。

ここらでは、昔から台風が来るのも、水に浸かるのも年中行事。1年間を通して川と付き合う中での一部にすぎない。

川の怖さも、ありがたさも、知り尽くしている。危ないところも、逃げ方も知っている。だから、台風で死者が出たという話は聞いたことがない。

こんな川との生活の中で、沈下橋という独特の形がうまれたのだ。

台風が来ると困る。
しかし、まったく来ないというのも寂しい。

第二の人生(2)

「土佐の寅さん」こと間六口(はざま むくち)さんは、四万十市の漫談家であり、いまや市民、いや高知県内では知らない人がいないくらい有名になった。「土佐のお笑い話芸の会」代表である。

六口さんの十八番は、バナナのたたき売り。しなる竹でバチバチ台をたたきながら、絶妙の口上で笑いの渦を巻き起こす。敬老会などでは、おばちゃんたちに大人気、四万十のスターである。

最近では県外にも呼ばれ、先月には石巻市雄勝町でも2時間ライブを行い、震災被災地に笑いで元気を与えてきた。

六口(本名 坂本純一)さんは、いま71歳。こどもの時から、周りを笑わせるのが好きで、学校を出た時、その道に進もうともしたが、親の反対で公務員(労働省職業安定所)になった。

しかし、熱い思いを持ち続けてきた。定年を迎えたのを機に、満を持して本格的にこの道を極めようとチャレンジしたのだ。名前の「間」は市内の生まれたところの地名、「六口」はおしゃべりという意味である。

バナナのたたき売り以外にも、六口さんは、会うたびに、次々にメニューを広げている。

高齢者を元気に、がモットーなので、福祉にかかる勉強、情報収集を欠かさず、また時事ネタもタイムリーに織り込んでいる。公務員時代の六口さんのことは知らないが、おそらくいまのほうが多忙で、生き生きとしているのではないだろうか。見事な第二の人生である。

六口さんと同じような生き方をした先人に伊能忠敬(1745~1818)がいる。

忠敬は、下総国(千葉県)佐原の商家に婿入りし、伊能家を豪商といわれるほどに大きくしたが、50歳で家督を息子に譲り、隠居した。

以後は、江戸に出て、もともとやりたかった星学暦学の勉強を始める。15歳も年下の師について。そして、56歳から死ぬ72歳まで、蝦夷地からスタートし、全国を歩き尽くし、日本地図を完成させた。17年間で3万5千キロ、約4千万歩に及ぶ。

前号で紹介した私の元上司は、忠敬と同郷であり、忠敬の生き方を自分の目標、指針にしてきたそうだ。一生の中で、二度の人生を生きた人として。

間六口さん、伊能忠敬に共通するのは、第一の人生中も、もともとやりたいこと、好きなことを持ち続け、さらにレベルアップをめざす向上心をもっていたこと。

義務では続かない。
好きなことをするのが大前提。
私としても、身につまされる二人である。

間六口 写真



第二の人生

農林中央金庫時代の元上司から、また本が届いた。篠塚勝夫『 二度の人生 ―第三生活の日々― 』(自家本、146ページ)。

昨年6月届いた最初の本は、元上司が古稀(70歳)にあたり、四国巡礼をされた旅日記であり、そのさいわが家にも泊まられたことは、このブログでも書かせてもらった。(「四国遍路」2016.6.7)

今回の本は、62歳で仕事から完全リタイアし、「第二の人生」をスタートさせてから今年72歳を迎えるにあたり、新10年間を「小括」したもの。(まだ続くので「総括」ではない)言わば、第二の人生の中間報告である。

副題が「第三生活の日々」となっているのは、 第一 学び・学習の時代、 第二 職業を通しての社会貢献時代、 に続く時代 と区分していることによるものだが、要は、仕事から完全リタイア後の生活を振り返ったものである。

元上司は仕事に厳しく、論理や理屈建てを大切にされる方だったので、仕事の進め方や書類の書き方等にもうるさかった。自らはガッチリとした文章を書き、私などは厳しく指導をされた。

そんな元上司だから、リタイア後もいろんな場面で文章、記録を書いてきたようで、それらを整理編集したものが今回の本である。

私は仕事を通しての姿しか知らなかったが、これを読むと、以前とは違う人がそこにいる。見事な変身である。

考えれば、仕事に厳しかったということは、自らを厳しく律し、コントロールできたからであろうし、そういう人は、リタイア後もその能力を別の方向にきりかえ、集中できるということであろう。

元上司には、障害をもった子どもさんがいる。リタイア後は、障害者支援、福祉活動に広く深くかかわっておられる。特別支援学級、就労支援など。

また、いま居住の千葉県佐倉市の地域活動にも積極的に参加。高齢化が進む中での地域の助けあいや絆を強める取り組み。いろんな世話役をすすんで引き受けている。さらに、東北震災後は、何度もボランティアとして、現地に出向いている。

もちろん、こうした奉仕的活動だけでなく、畑を耕し、生涯学習教室にも足を運び、自己啓発にも努め、思索や思想を深める。

以前の職場関係との付き合いは抑制するよう心掛けているという。

そうした新しい生活の中での、さらなるステップアップを求めての四国巡礼であったのだ。

なるほど、それではいまの自分は何なのかと思う。
はたして第二の人生なのだろうか。

55歳で早期退職をし、地元に帰ってきてから9年になる。自分が生まれそだったふるさとのために役に立ちたいと、の思いからであった。その思いも、地元に骨を埋める覚悟も、不動である。これは、はっきり言える。

しかし、いま、およびいまから、どのような形で地元のために尽くすかというと、現時点ではっきりとした方向を見出せていない。

幸いにも、地元に帰ってからすぐに念願通りの公務につかせてもらった。行政経験はなかったが、ふるさとへの思いだけは誰によりも強く持っているという自負があり、どんな場面でも、しんどいとか思ったことはなかった。

ふるさとのために走り回れるなんて、こんな幸せなことはない。やりがいがあり、充実した時間だった。

しかし、その時間は4年間で突然止まってしまった。思いだけでは通用しない、総合的な力量が不足していたことは認めざるをえないが、その総括は、まだ自分の中では終わっていない。不完全燃焼で、煙がくすぶったままである。

以前の仕事に区切りをつけ、ふるさとに帰ってきたという意味では、いまは第二の人生なのだろう。しかし、このまま人生のゴールを迎えるという意味での納得できる生活スタイルは、まだ持ち合わせていない。

くすぶったままの煙を再点火させるか、違った火種をさがすのか、腹固めには、いましばらく時間がかかりそうだ。

目的は同じだが、次のステップに向け、飛び方や飛ぶ方向を定めなければならない。それは第三の人生と言ってもいいのかもしれない。

そんなことから、なんとも悩ましい元上司の本である。

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中村高校の夏

中村高校野球部の夏が静かに終わった。

夏の甲子園高知県予選準決勝で中村高校は梼原高校に1-4で敗れた。私は決勝に進めば球場に行くつもりでいたのだが、かなわなかった。

私と同じ気持ちの人は多かったのではないか。テレビで見る限りでは、スタンドの応援は驚くほど少なかった。3月20日には、6千人の大応援団が甲子園のアルプススタンドを埋めたのに。

梼原高校の応援団のほうがはるかに盛り上がっていたし、選手もそれに応え、闘志をむき出しにしていた。それに比べ、中村高校の選手たちは、どこか受けて立つような感じで、おとなしく感じられた。選手、応援団とも、気持ちの上で、梼原が勝っていた。

春は40年ぶりの甲子園出場ということで、地元は大いに盛り上がった。異様な熱気に包まれ、興奮に酔い、躁状態に陥っていた。私自身もそうであった。

しかし、その熱が高かっただけに、冷めるのも早かったように思う。甲子園では勝てなかったが、最後に1点をとっただけで大満足。達成感にあふれていた。それには秋の県予選で王者明徳に勝ったという達成感も含まれている。

しかし、勝手に興奮して、勝手に冷めるのは応援団だけであって、選手たちは、夏ももう一度あの甲子園に行きたいという思いを強くもっていたに違いない。きっとそうである。

しかし、地元は一度萎えた気持ちをもう一度昂らせるのは難しかった。夏の予選が近づいても、驚くほど静かであった。春の後遺症が激しく、疲れてしまっていた。

私自身、去年夏、秋の県予選とも決勝戦の前にも球場に駆け付けたが、今回はそこまでの気持ちにはならなかった。

春の甲子園出場決定と同時に、地元では支援実行委員会が立ち上げられ、瞬く間に多額の寄付も集まった。残余金が多く出たようで、それを何に使うか議論があり、グランド入口に記念碑を建てることになったと聞く。ここまではよかったのだが、7月上旬には出来上がってしまった。

夏の予選に向けて気持ちを集中させているときに、選手たちはどう思っただろうか。「もう十分やった、ご苦労さん」と受け取られたのではないかと心配をしている。

記念碑建立は、夏が終わってから、卒業までの間でよかったのではないか。実行委員会の解散にともなう会計決算のためであろうが、性急すぎたと思う。また、実行委員会も夏が終わるまでは続けたらよかったろうに。

まあ、ドタバタがあった1年であったが、これも中村高校野球部ががんばってくれたおかげである。こんなに地元が盛り上がることは、絶えて久しかったことであり、地元へ貢献大である。

私自身にも楽しく充実した、メモリアルな1年であった。野球部の3年生には、ご苦労様と、心からのねぎらいとお礼を言いたい。

しかし、2年生以下は、違う。ぜひ、新チームでもがんばってもらいたい。そして、なるべく早い時期に、3度目の甲子園に連れていってもらいたい。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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