小林多喜二の墓

 私は20年前転勤で札幌にいたころ、小樽には仕事で何度も来ている。休日にはぶらり観光も。小林多喜二が小樽の人であることは知ってはいた。しかし、その足跡を訪ねることはなかった。なんでと、あとでずっと悔やまれた。

そこで、ぜひ今回はと思った。6月8日、まず、小樽市立文学館へ。旧日銀支店前で、美術館と同居していた。小樽を代表する文学者と言えば、小林多喜二を伊藤整。二人の展示コーナーは、特別に広く仕切られていた。

多喜二は明治36年、秋田県大館の農家に生まれたが、4歳の時、伯父を頼って一家で小樽に移住。小樽商業、小樽高商を出たあと、たくぎん(北海道拓殖銀行)に就職。その頃から、社会問題に関心を持ち労働運動に参加、小説も書き初めた。「蟹工船」「一九二八年三月一五日」などは、小樽時代に書いた。

たくぎんを解雇され、昭和5年上京してからも作品を書き続けたが、思想言論の自由がない時代、昭和8年2月、特高警察に拘束され、即日築地警察署で拷問虐殺された。

展示は、小樽時代の写真や原稿と、虐殺時の写真や絵、新聞記事が対比されるように並べられていた。その中で、息子を殺された母セキの写真と絵に胸を打たれた。

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小樽は坂の町。墓は文学館から車で15分ほど、朝里川温泉に抜ける坂道を上ったところにある市営奥沢墓地の中の斜面にあった。

墓地の入口はすぐわかったが、辿りつくのに時間を要した。事前にネットで調べたら、道案内板がポイントに建てられているというので安心していたが、それがない。入口からまっすぐ上ってから、右折するところでウロウロ。だいたいの見当をつけて、やっとたどりついた。

「小林家之墓」は背が高く、裏には「昭和五年六月二日 小林多喜二建立」と刻まれていた。親孝行の多喜二は、東京に出てからもこまめに家に仕送りしていた。兄が夭折していたため、跡取り息子であった。墓にじっと手を合わせた。

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しかし、周りに墓標や解説板のようなものは何一つなかった。墓筒には造花。多喜二は治安維持法の犠牲者のシンボル。多くの人が訪ねて来ているだろうに、なぜ? と思った。

同じく国に殺された幸徳秋水の墓には、道路入口に碑と看板、墓には墓標と解説板を2枚立てている。墓筒には花や榊を定期的に差し替えているのに。

秋水同様、多喜二命日2月20日には毎年墓前祭が行われている。厳寒期であるため、雪にうずもれた墓を掘り出し、ユンボで道の雪かきをしてから。秋水には白い菊の花を献花するが、多喜二には赤いカーネーション。

おおかた1年の半分は雪の中であろうから、看板を立てても維持管理がむずかしのかもしれない。実際、ネットで見た木製の道案内板も朽ち果てたのだろう。

しかし、多喜二ほどの歴史的人物の墓でありながら、現状、標識板が何もないというのは、いかにも寂しい。金属製の頑丈なものを作ればよいのではないか。

治安維持法の現代版共謀罪が強行採決されたいまだからこそ、多喜二を忘れてはいけない。地元の墓前祭実行委員会のみなさんには、ぜひお願いしたい。資金の問題があるのならば、全国にカンパを呼び掛けてくれれば、私も協力したい。

秋水が小樽に来たのは前号で書いたように明治36年8月であった。その同じ年の12月、多喜二は秋田で生まれている。これは今回気づいた。

また、多喜二が殺された日は、昭和8年2月20日(29歳)。20年後の同じ日に私は生まれている。これは以前から知っていた。

そんな縁がある多喜二だからこそ、看板がないのは気になった。

小林多喜二を描いた映画や演劇は過去何度もつくられているが、このほど母セキを主人公にした映画「母」がつくられた。三浦綾子の同名小説が原作で、主役は寺島しのぶ。7月15,16日、高知市で上映会があるので、見に行きたいと思っている。

念願の墓参を終えてから、山道をさらに5分ほど上のほうに車を走らせ、北海道ワイン株式会社の本社、醸造所、ワインギャラリーを訪ねた。

同社は嶌村彰禧氏が昭和49年設立。最初から国産原料にこだわり、小樽ワインのブランドで製造。かつて仕事でお世話になった先である。その後も会社は順調に業容拡大し、いまや国産ワインとしては日本一。

原料は北海道各地から入れているが、旭川に近い浦臼町には広大な自社農園がある。浦臼といえば、明治時代、坂本龍馬の一族が開拓に入植したところで、その墓もある。そんな縁で、同町と高知県本山町は友好都市縁組をしていることは、先にも書いた。高知県人会で浦臼町ワインまつりに参加したこともある。

北海道みやげにと、小樽ワインを車のトランクにいっぱい買った。

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小樽と兆民、秋水

 今回、北海道へは、6月6日9時に車で家を出て、途中兵庫県篠山市の丹波立杭焼の里に寄ってから、23:50発舞鶴からフェリーに乗り、翌日20:45小樽に着いた。

21時間を要する船旅は心配無用、快適であった。曇天であったが、波は静かで、船は時速60キロで滑るように進んだ。船内で朝風呂に入った。レストランも広く、ホールではフルート演奏もあった。映画の上映も(見なかったが)。

困ったことと言えば、海上はインテ―ネットが通じないこと。当然といえば当然であるが、想定外であった。能登半島沖~奥尻島沖までの間が圏外。タブレットが体の一部になっている現状では、体に違和感を生じた。しかし、せっかくの非日常の海の上だから、ネットからも解放されたのはよかったと思う。

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小樽上陸後、運河前のホテル泊。翌日は、市内で行きたいところがあった。明治時代の中江兆民、幸徳秋水の足跡と、小林多喜二の墓である。

幸徳秋水を顕彰する会役員で友人の堂端直哉さんから、いろいろ教えてもらったからである。堂端さんは小樽出身で高知大学を卒業後、いま四万十市在住である。郷土へ熱い想いと、誇りをもっている。

中江兆民は自由党土佐派の裏切りにあって政界を去ったあと、明治24年(1991)7月、小樽で創刊された新聞「北門新報」の主筆として招かれた。招いたのは、当時小樽を代表する実業家で政治家でもあった金子元三郎であった。

しかし、兆民は腰が落ち着かなかったようで、半年ほどで東京に帰り、翌年戻って来たが、まもなく退社。その後、札幌に移り、紙問屋や山林事業を手掛けたが、いずれも失敗した。

こうしたことは、後に弟子秋水が「兆民先生行状記」に書いている。民権運動家で学者、文筆家であった兆民の多彩な顔として。

しかし、兆民の小樽、札幌での足跡=場所は、はっきりしていない。ただ一つ金子元三郎商店の古い建物だけが、観光客でにぎわう堺町通りの一角に残っていた。レトロな雰囲気で小樽市指定歴史建造物指定。現在は、ジュエリー店が入っていた。

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ただし、北門新報がこの建物の中で出版されていたかどうかは、わからないという。詳しい記録が残っていないのだ。

 秋水については、詳しい記録がある。秋水は、日露開戦の前年明治36年(1903)8月、理想団札幌支部、同小樽支部の招きで札幌、小樽を訪れ、講演をしている。

当時、万朝報の看板記者であった秋水の来道はトピックスであったのだろう、小樽新聞に記事が載っている。

「幸徳氏の来札・・・札幌理想団支部の招請により漫遊旁(かたがた)幸徳秋水氏は昨日来札せるが本日午後五時より禁酒倶楽部に於て札幌支部の臨時大会を開き氏の講和を聴問する由」(8月9日)

「社会主義演説會・・・幸徳氏来札に付き一昨九日午後一時より禁酒倶楽部に於て社会主義演説會を開きたるが竹内餘所次郎氏「現時社會の弊害」、幸徳氏「社会主義の現況」、なる題下に各社會主義の有望多福なる所以を演じ三時頃閉會し終りて豊平館に於て理想団支部の晩餐會あり廿餘名の参會ありしと云う」(8月11日)

「理想団の幸徳氏招待會・・・理想団本部より幸徳秋水氏来樽せるを以て小樽支部にては昨日午後五時より氏を色内町精養軒に招待し晩餐会を開き社会主義に関する氏の談話を聴取したる由」(8月11日)

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また、秋水が小樽から「在京同志者宛」に8月11日付で出した手紙も「秋水全集」第9巻に収録されている。

その中で、秋水は「・・・全体北海道は新開地の事とて、土地、森林、市区などに関し未定の問題多く、社会主義的政策実行においても有望なり。かつ旧来の慣習階級など少なく、真個激烈の自由競争なるがゆえに、将来社会主義の蔓延盛なるべきは明白なり」と書いている。

理想団とは、明治34年(1901)、社会改良、救済を目的に組織された団体で、まだ穏健なサロンのような集まりであったが、日本で最初の社会主義を胚胎した団体であった。呼びかけ人は、万朝報に集っていたメンバーが中心で、社長黒岩涙香ほか幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三らであった。

理想団支部が、札幌、小樽にできていたように、北海道ではこの運動が全国に先行していた。実際、秋水の予想通り、後に秋水らが発行した平民新聞の読者数でも北海道は全国上位を占めていたという記録がある。

秋水が晩餐会に臨んだ小樽精養軒があった色内町は今も同じ町名で残っており、今の場所でいえば、旧たくぎんビル前の小樽運河バスターミナルあたりではないかと、先の堂端直哉さんは言っている。

小樽新聞記事も、堂端さんが今年になって帰省し、小樽市立図書館で発見したものである。

小樽運河バスターミナルは、運河のすぐ近くで、写真の通り、堺町通り入口にあたるところ。外人(東洋系)観光客でにぎわっていた。秋水はここに来たのか。

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秋水がやって来た明治36年ごろの小樽といえば、のちに「北のウオール街」といわれる北海道の金融の中心として発展途上にあったころである。

なお、後に秋水らが処刑された大逆事件では、24人が死刑判決(うち12人無期懲役に減刑)を受けたが、ほかに2人が有期刑となった。そのうちの1人、新田融(懲役11年)の逮捕時の本籍は小樽(北海道後志国小樽区稲穂町14)であった。

新田は宮城県仙台市生まれ。逮捕時は長野県明科。小樽にいたのは日清戦争出征時義兄方に一時住んでいたことがあるだけで、生活歴はなかったに等しい。新田は社会主義者ではなかったが、事件に巻き込まれた。しかし、当時「逆賊」の一人とされたことで、小樽新聞では、その名が大きく出ている。

ところで、秋水の本名は伝次郎。
この名をもらった、わが家のパグ犬伝次郎も今回、北海道に連れて来たが、小樽運河前ではビクビクドキドキ。2歳半では、まだまだ名前負け、修行が足りないなあ。

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北海道高知県人会

 6月9日、北海道高知県人会に6年ぶりに出席してきた。

私は農林中央金庫時代の1997年から2年間、札幌に転勤した。ちょうど20年前になる。その時、高知県人会に入り、交流を深めた。

そのころ、本市古津賀出身の東功さんが北海道新聞の編集長をされており、大変お世話になった。東さんは、すぐに社長になられたが、その後病気で急逝されたのが惜しまれる。

明治の開拓では、多くの高知県人が北海道に渡っている。代表的なのが、坂本龍馬の甥坂本直寛がリーダーであった北光社。明治30年、いまの北見地方に入植している。直寛の孫が画家坂本直行で、今では北海道を代表するお菓子六花亭の包装紙に直寛が描いた野の草花の絵が使われていることは有名。

初代北海道庁長官(知事)は宿毛の人、岩村通俊である。そんなこともあって、北見市と高知市、訓子府町と津野町、滝上町と越知町、浦臼町と本山町、積丹町と香美市、江別市と土佐市などが、それぞれ友好都市交流をしている。

わが四万十市も中村市時代から、友好都市枚方市(大阪府)を介して、オホーツクに面した別海町とトライアングルで交流をしている。

道内には、高知県人会がいくつもあり、札幌、旭川、北見、滝上などで連合会をつくっている。それらが年1回、一堂に会して交流会を開いている。最近は、よさこいソーラン開催時期にあわせて。

私は四万十市長時代、招待を受けて公務としても一度出席した。その時は、大学同期の高橋はるみ北海道知事を訪ね、誘ったら一緒に出席してくれたことを思い出す。はるみさんは、今も現職で4期目というから驚く。

市長を引いてからも毎年案内状をもらっているので、それならば、ついでに思い出探しを兼ねて、道内をまわってこようと思い、妻、パグ犬伝次郎と一緒に出掛けることにした。

毎年、高知県からも多く参加するが、今年は高知県松尾産業振興部長(知事代理)、浜田県会議長、今西本山市長、池田津野町長が参加していた。いずれも旧知のみなさんだ。

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道内からも、長屋滝上町長とともに、曽根別海町長が参加されていた。6年前は、水沼町長にお声をかけ、初めて参加していただいたが、水沼さんは昨年在職中に亡くなられたので、今回曽根町長とお会いするのは初めてであった。がっちり握手をさせていただいた。

別海町からは、お付き合いを続けている元役場職員の佐藤良幸さんも今回お誘いしたら、参加してくださり、感激であった。

旧大方町馬荷出身で札幌在住の川村澄雄さんにも久しぶりにお会いできた。土佐町出身の医師で、四万十市民病院にも常勤で勤務してくださり、いまもなお毎月、本市民間病院においでくださっている矢野昭起先生ご夫妻も参加されていた。参加者は総勢102人と久しぶりに3桁台に達したと、事務局もよろこんでいた。

 ところで、私は札幌時代、中央区宮の森の社宅に住んでおり、すぐ近くに円山公園があった。その周りをよくジョギングした。あるとき、公園内の木立の中に銅像を発見した。岩村通俊像であった。

今回、なつかしいので、その銅像にまた会いに行った。木立は緑の林になっていた。改めて、裏の銘盤を見ると、岩村の経歴紹介の末尾に、「北海道百年を迎えるにあたり、その功績を永く後代に伝えるため、これを建立する。昭和42年10月 北海道開拓功労者顕彰像建立期成会 会長廣瀬経一」と刻まれていた。

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今回、これと同趣旨の銅像はほかにあるのかネットで調べたところ、ほかに3つあった。黒田清隆(薩摩)、ホーレスケプロン(アメリカ)、永山武四郎(薩摩)。いずれも北海道開拓に名を遺した人だ。

黒田とケプロンの像は、大通り西10丁目の大通公園内に並んで建っているという。ああ、あの像か。私が地下鉄西11丁目駅で降りて、西5丁目の職場まで通勤するさい、いつも往復通ったところだ。広場の真ん中の目立つところに、2像デンと並んで建っていた。今回、また訪ねてそれを確認した。やはりいい場所だ。

永山の像は、旭川の常磐公園にあるという。見たことはないが、公園は街中にあり、入口の目立つところに建っているという。

そこで、私は今回考えた。4像の場所はどうして決めたのだろうかと。永山については、本人が街づくりを指揮した旭川に建てられたという理由はわかった。しかし、あとの3像は?

黒田、ケプロン像は札幌の中心、大通公園に立ち、周りに遮るものは何もない。それに比べて、岩村像は、小高い円山の下の公園の中、しかも入口のような目立つところではなく、公園の端のほうの林の中にある。公園内を歩く人も、よほど周りをキョロキョロしないと気づかない。2カ所の違いは、写真のとおりである。

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岩村像は、50年前に建てられたころは、公園内の木もそう伸びていなかったのかもしれない。また、いまは緑豊かな季節なので、像は木陰に隠れているが、落葉した季節には、いまよりは見やすいだろう。

しかし、いずれにせよ、目立つ場所という意味では、2カ所の差は歴然としており、不公平である。岩村と同じ高知県人としては、不満を感ずる。

3人の功績に差があったのか。黒田は岩村の次、2代目の北海道庁長官である。普通なら、初代長官のほうが前面に出るだろう。

しかし、黒田はのちに総理大臣にもなっている。また、ケプロンは黒田が招へいしたアメリカ人。これなのか。つまり、2人はセットで建てるとなると、広い大通公園のほうがいい。そのワリを食ったのが岩村ということなのだろうか。

今回ネットで調べたところ、岩村の像は戦前にもあり、昭和11年、大通り西11丁目に建てられたが、同18年、戦時金属供出の犠牲になっている。黒田、永山像も同時に供出されたとあるが、戦前、建立されていた場所は書かれていない。

つまり、昭和42年、開道百年記念に岩村像が再建されたさい、場所は昔あった大通りから円山公園に変えられたのだ。

そこで、提案したい。岩村像を、札幌駅に近い、旧赤レンガ道庁の庭、できれば玄関横のスペースに移したらどうか。岩村は初代道庁長官なのだから、それぐらいの場所を与えても当然ではないだろうか。

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今年はちょうど開道150年。これについては、ぜひ北海道高知県人会が先頭に立って、要望活動に取り組んでいただきたいと思う。

僭越ながら、今回、久しぶりに岩村通俊像を見て、強くそう思った次第。

なお、岩村像は、旭川の常磐公園内にも、もう1基あるようだ。昭和26年建立されたもので、こちらのほうが古いが、私が言いたいのは、昭和42年、開道百年にあわせてつくられた4基の場所の不公平について、である。

追悼 久保知章さん

獣医師で元三原村長の久保知章さんが6月16日、食道がんで亡くなった。78歳。

私が久保さんに初めてお会いしたのは2009年、地元にUターンして市長選挙に出るための挨拶まわりをしていた頃である。山に囲まれた小さな村(当時人口約1600)の村長のイメージとは違い、柔和で、ちょっと垢抜けした品の良さを感じた、ことを覚えている。あとで、獣医さんだと聞かされた。

私はその年の5月に市長になったが、久保さんは同年12月、再選をめざした選挙に破れたので、首長同士として重なるのはわずか半年ばかりであった。だから、隣村とはいえ、公務上では特に印象に残る接点もなかった。

久保さんは昭和13年、三原村生まれ、8人兄弟の一番上。宿毛高校から大阪府立大学農学部獣医学科に進まれた。卒業後は明治乳業に入社、釧路工場専属獣医師として北海道の酪農家を助ける仕事をされた。いま四万十市と友好交流している別海町での仕事が一番印象に残っていると、よく言われていた。

その後、高知県に帰り、三原に隣接する大月町役場の獣医となった。その頃は、大月町にも多くの牛、馬、豚がいたのだ。しかし、大動物の管理指導は県行政に移行する流れの中で、中村東町に小動物を対象にした動物病院(中村動物病院)を開業した。

久保さんはふるさとへの思いが強い人だった。中村で仕事をしながらも、いつも三原村のことが気にかかっていた。実家とは、いつも行き来していた。

そうした中、ふるさとの状況を憂い、2005年、村長選挙に立候補、見事思いを遂げた。しかし、村政運営では大変苦労をされた。熱意や理屈だけでは通用しないのが地方の行政。副村長選任の同意が3年間得られないなど、議会にはいじめぬかれた。私も同様の経験をしただけに、久保さんの無念さがよくわかる。

しかし、中村動物病院に戻ってからも、いつも笑顔を絶やさなかった。他の動物病院が土日休みでは困るだろうと、土日を優先して開いた。私の家の先代パグ犬「まる」もお世話になった。飼い主の気持ちになって考えてくれる、赤ひげのような獣医さんだった。動物にやさしい人は、人間にもやさしくなれる。

カラオケ大会では、自慢ののどを披露されるお姿をたびたび見かけた。それでも私は、久保さんとは、公務が忙しかったこともあり、あまり個人的に接することはなかった。

お付き合いが深くなったのは、私も久保さん同様、1期4年で市長選挙に破れて時間ができ、幸徳秋水を顕彰する会に本格的にかかわるようになってから。久保さんは同会の副会長であった。

久保さんは謙虚で、あまり強引なものの言い方をされない方である。ニコニコして、周りに気配りされながら、ゆっくりしゃべられる。しかし、そばにいると、その人柄と見識の深さが伝わる。芯の強さと、頑固さも。

久保さんの話を聞いて、その生き方の原点は60年安保だと思った。大学時代、その運動に参加された。日本の平和、民主主義を守るために、また秋水がめざした自由、平等、博愛が実現する社会を目指すために、なにをしなければならないか久保さんはわかっていた。いろんな集会や講演会などには、かならず久保さんの顔があった。

2年前、幸徳秋水を顕彰する会会長に推された時、そんな大役は自分にはふさわしくないと、さかんに固辞されたが、論客と個性派ぞろいの会のまとめ役として、久保さんが適任であることはみんなの一致するところだった。実際、この2年間で会は大きく前進した。

久保さんが体調不良を口にされたのは、1年ほど前。食道にがんが見つかった、それもかなり進行していると。しかし、ニコニコしながらそんなことを言うので、にわかには信じられなかった。実際、それからもいつもどおり会には出席され、顔色もよいので、真剣にがん治療をされているとは思えなかった。

だいぶあとからわかったことだが、手術もできない箇所で、しかも適当な薬や治療法がなく、半ば自然に任せるしかないということだったようだ。だから、入院もせず、最後まで自宅ですごした。

迷惑をかけられないというご本の意向で、秋水顕彰会会長は、任期2年で、この5月の総会で引いていただいた。当然ながら、総会には出席できなかった。私が最後にご自宅でお会いしたのは、亡くなる1カ月半ほど前。最終段階は、ご家族だけですごされた。

亡くなられたあとご家族から聞かされたのは、がんが発見された時、医者から余命1年と宣告されたが、1年9カ月もってくれたので、よかったという言葉。そんなこととは知らなかった。久保さんはそんな深刻な状態であるにもかかわらず、われわれに心配かけまいとしたのだ。そして、きわめて平静に、笑顔を絶やさずに過ごされた。だから、われわれは、ついそれに甘え、いろんな問題を相談したりしたことを、いま反省している。

久保さんの精神力、意志の強さには感服させられる。やさしいからこそ、強くなれる。獣医師であるため、ご自分の寿命というものを冷静にうけとめることができたこともあるだろう。

息子さん2人も獣医になりながら、県外で開業しているので、この病院は自分の代で終わりだと照れ笑いしながら言われていたが、本当は満足した笑いであった。

告別式でご長男が挨拶をされていた。久保さんは望み通り獣医になり、ふるさとのためにもチャレンジするなど、自分の意志通り、好きなことをしてきたのだから、本人は満足だろうし、少し早かったけれど、家族もこれでよかったのだと納得しています、と。

誠実に、真面目に、真剣に生きた人。それが久保さんであった。

私も多くのことを教えていただきました。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。

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 幸徳秋水墓前祭 2016.1.24

青年団と太陽館

  太陽館は興行師だった澤田雅男さんが大正15年(1916)、中村で最初の常設映画館としてつくったもの。同じ年、四万十川橋(赤鉄橋)もできた。中村のまちが近代化され、賑わいが絶頂にあったころのシンボルであった。

雅男さんの息子が寛さんだった。寛さんは予科練に入ったが、松山航空隊に配属されていた20歳の時、敗戦となった。最後は特攻要員だったという。

中村に帰った寛さんは父の仕事を手伝うかたわら、青年団運動に没頭した。リーダー格の兼松林檎郎らとともに中村町連合青年団をつくった。

昭和21年12月、南海地震が発生。死者約300人、中村のまちは壊滅状態になった。支援物資の運搬、配給など、青年団は震災復興の先頭に立った。

青年団は被災した子どもたちの面倒もみた。150人ほどのこどもを一條神社に集めていたが、その後土地も確保し、バラック建ての急場の保育所をつくった。中村町青年団立愛育園と命名した。いまの市立愛育園の前身、場所も同じ。

青年団は、自分たちが学ぶ学校もつくった。幡多郡連合青年団立幡多高等公民学院。学校法人としての認可もえた。いまの中村病院の場所だ。

愛育園も幡多高等公民学院も青年団の自主運営だった。行政から一部補助はあったものの、青年団にはカネがない。その資金をどうつくるかが大きな課題であった。

そこで、太陽館が登場する。澤田寛さんの提案で、幡多郡各所で映画の移動上映会を開くことになった。

太陽館のフィルム、機械を持ち出して、各市町村の青年団がもちまわりで学校や広場で上映。各地とも大入りだった。

その代表が戦後最初の総天然色洋画、グレゴリーペック主演の「小鹿物語」であった。

戦後間もないころの 廃墟と混乱の中、青年団が果たした役割はめざましいものがあった。その活動を支えたのが太陽館であった。

以上のことは、1998年に発行された「青春の軌跡 ― 幡多郡連合青年団活動の記録」(同編集委員会)の中で、寛さんが書いているし、回顧座談会でも語っている。

太陽館は単なる興行だけの映画館ではない。中村に根差し、中村の文化をつくり、新しい時代を切り開いてきた。

寛さんは、太陽館を閉館した8年後の2013年、87歳で亡くなった。いまその建物が解体中である。残念でならない。

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太陽館ありがとう

東京オリンピックが開かれたのは昭和39年、私が小学校6年生の時だった。

その記録映画ができたということで、学校全体だったか同学年だけであったか忘れたが、貸し切りバス乗って、太陽館に見に行ったことがある。

その日は授業はないし、バスにも乗れるということで、みんなおおはしゃぎ。しかし、中村のまちに着き、太陽館に入る時はみんな緊張顔だった。

太陽館はおまち中村の賑わいのシンボルだった。田舎のこどもにとっては、中村はそれだけ敷居が高かったし、太陽館はあこがれの的であった。

当時、中村には映画館が四つあったが、子どもにとって一番なじみ深かったのは、怪獣映画もやっていた東宝系の太陽館で、「キングコング対ゴジラ」「モスラ」は強烈だった。

太陽館は黒木和雄監督、中島丈博脚本の映画「祭りの準備」のロケに使われたこともある

太陽館は最後まで踏ん張っていたが、2005年に閉館した。しかし、建物はそのまま残り、栄町の飲み屋街の一角で威厳を漂わせていた。その建物がいま解体中である。

思えば2005年は中村市がなくなった年でもある。太陽館と中村市は運命共同体であったということだ。

ありがとう太陽館、さようなら中村市


高知新聞「声ひろば」投稿
2017.6.19

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太陽館 解体

中村最後の映画館だった太陽館の建物が解体工事中である。

太陽館の開業は大正15年(1926)。同じ年に四万十川橋(赤鉄橋)もできた。太陽館は中村近代化の象徴であり、文化の殿堂であり、おまち中村の賑わいのシンボルであった。

私の記憶に一番残っているのは昭和39年東京オリンピックの記録映画を八束小学校の授業の一環として貸し切りバスで見に行ったこと。6年生だった。その日は、学校はないし、バスには乗れるし、映画も見れる、ということで、みんなでワイワイ騒ぎならが、しかし、入館する時は少し緊張していたのを覚えている。

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当時中村には映画館が四つあった。東宝系の太陽館、東映系の末広、日活系の中劇、洋画系の北劇だ。この中で、私に一番なじみがあったのが太陽館である。「キングコング対ゴジラ」の怪獣映画を見たことも強烈に覚えている。

11月の一條さん(一條神社大祭)の時には、中村のまちは人であふれていた。神社にお参りをすませた後の楽しみは、相撲大会、サーカスを見るか、映画を見るか、だった。

そのころ、太陽館売店では椎の実を鍋で炒って売っていた。1袋10円とか20円で。みんな椎の殻を歯でパリッと割って食べながら、映画を見ていた。パリッ、パリッという音と、足下に捨てた殻を靴で踏むバリッという音が館内中響いていた。

太陽館には2階席もあり、両脇には座敷席もあった。1,2階合わせて800席もあったときく。それでも入り切れずに、立ち見の人も多く、入れ替え時の席の取り合いがすごかった。こどもにとっては、必死だった。

そんなに賑わっていた太陽館も段々と入る人が少なくなってきた。私も地元を離れてからは縁遠くなってしまった。しかし、それでも帰省したさい、前を通るといつも派手な看板が上がっていた。また、まちのあちこちに経営者澤田寛さん独特の字体の看板が建ち、それが中村のまちには欠かせない風景となっていた。

他の3館が閉館になっても、太陽館だけはずっとふんばっていた。最後のころは、毎日開けることはできなくとも、話題作だけ上映するとかして、高知県西部において唯一の映画の灯を守り続けていた。

しかし、澤田さんが高齢になり後継者がいなかったこともあり、ついに2005年以降は銀幕が上がることはなかった。同じ年に中村市もなくなり、四万十市になった。中村と太陽館は運命共同体であった。

太陽館には、中村市民みんなの思い出が詰まっている。それぞれの記憶の中に刻み込まれている。

私は、市長時代、太陽館の建物を保存し、おまち中村の再生のシンボルになるような施設として活用できないかと考え、ご家族に打診をしたことがある。しかし、すでに体調をこわされていた澤田さんとは、詰めた話にはならなかった。

私が市長をやめたあと、その年2013年に澤田さんは87歳で亡くなった。

私はその後も太陽館の前を通るたびに、この建物はどうなるのだろうかと心配をしていた。入口には看板、ポスターがずっとそのまま残り、郷愁を漂わせていた。

そんな中、先月5月23日、たまたま前を通りかかったところ、解体の準備がされていた。驚いた私は、建物の中に入り、写真を撮らせてもらった。ごらんの通り、過去の栄光は残骸となっていた、屋根の一部には穴が空いていた。

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市役所最上7階の議会フロアーの窓からは、赤く錆びた太陽館の屋根を見下ろすことができる。解体には重機が入れないので約1カ月かかるという。

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いつかはと思っていたが、突然消えてしまう。
なんとかならなかったのかという思いは強い。
ありがとうというには、まだ心の整理がつかない。

土地は天神社所有。跡地利用は未定と聞いているが、できれば中村の文化の伝統を受け継ぐような活用をしてほしいと思う。行政も積極的にかかわってほしい。
 
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NHK とうちゃこ

NHKBSの旅番組「とうちゃこ」を最近見るようになった。

この番組は、俳優の火野正平が自転車に乗って「こころの風景」を訪ねて全国を旅するというもので、2011年から断続的に放送されているようだが、これまで見たことはほとんどなかった。

きっかけは、今年春のシリーズが高知県幡多地方から始まり、3月末、わが四万十市に火野正平が来たからだ。市内では、薫的神社と藤の川が紹介された。「とうちゃこ」とは、「ちゃりんこ」で「到着」という意味だと思う。

私は旅番組が好きである。きょうはどんな番組があるかなと、毎朝新聞を見る。旅番組はBSが多い。BSは大人向きの静かに見せる、しっとりとした番組が多く、私はBS派だ。

「とうちゃこ」のいいところは、派手な演出がないところだ。ローカルな人々の暮らしや風景を淡々と伝えている。その土地の肌触りが伝わるのは、車ではなく自転車で移動するからなのだろう。火野正平の控えめなキャラクターもいい。

NHKと言えば、「鶴瓶の家族に乾杯」も見るには見ているが、こちらのほうは鶴瓶の個性が強烈。ドカドカと我が物顔に突撃訪問し、高圧的に語りしゃべりまくっている姿は、都会人が地方を見下して、荒らしまわっているように見える。

鶴瓶は突撃訪問と言っても、事前にスタッフが相手に予告し、根回しをしているのが見え見えだ。しかし、「とうちゃこ」は、もちろんその土地やコースの下見はしているのだろうが、人に会う場面はシナリオなしであることがわかる。中村の町のラーメン屋さんから実際聞いた。本当に予告なしで現れ、驚いたと。

また、鶴瓶は、家族との出会い・紹介をメインにしているが、火野正平は風景の紹介をメインにしている。手紙をもらった人の「こころの風景」を訪ねる。

だから、淡々と静かである。地方に寄り添い、地方にやさしい。その中で、自転車をこぐ「ハーハー」という息遣いが臨場感を高めている。

こんな番組だったらもっと早くから見ればよかったと思っている。というのも、この番組は夜7時からNHKBSプレミアムで放送されているが、その時間帯はNHK総合のニュースと重なるから、私には完全に裏番組として陰に隠れていた。私はニュースをずっと見て来たからだ。

しかし、最近はNHKニュースを見るのがイヤになった。あまりにも政府広報に墜してしまったからだ。政府に忖度しまくっている。NHKの政治ニュースは世の中の真実を覆い隠してしまい、政府の思う方向への世論誘導の役割を果たしている。

こんなの見ないほうがいいいと思い、最近は極力NHKニュース見ないようにしている。そんなこともあって、これまでは裏番組であった「とうちゃこ」が表に出てきた訳だ。

NHKニュースを見るのは、やめよう。
「とうちゃこ」を見たほうがずっといいですよ。

大分へ(4ー終)

大分駅前の同じホテルにもう一泊し、3日目はもう四国に帰る日である。

以前職場の食堂の賄さんとしてお世話になった女性が最近音信不通なので自宅を探し訪ねたが、心配した通り高齢のため施設に入所しているという。残念ながら会うことができなかった。

ノンビリ県庁前の府内城址公園をぐるり回ってみた。新緑と堀の水に白壁が映えてしっとり美しい。こんなに落ち着いたところだとは思わなかった。20歳代の感覚といまでは違うのは当然か。城内には、以前は文化会館(ホール)があったが、取り壊され駐車場になっていた。そのため閑静になったのかなとも思った。

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帰りは、佐賀関から三崎へフェリーで渡ることにしたので、途中、萩原にある大分護国神社に立ち寄った。小高い境内の斜面から、大分の代表的風景が眺められるからだ。

大分市は昭和40年代から新産業都市として、臨海部を埋め立て、多くの企業を誘致した。その代表が新日鉄である。新日鉄大分製鉄所は昭和47年、国内9番目(最後)の製鉄所として開業した。

コンピューター制御された最新工場の市民向け見学会があり、昭和53年ごろ見学したことがある。火の塊の棒がビュンビュン飛んでいたことを思い出す。

昭和電工、九州石油、九州電力(火力発電所)なども進出し、大分市は新産業都市のモデルとされていたが、別の言葉で言えば、大企業が幅をきかす企業城下町となったわけであり、公害問題等、様々な問題をかかえていた。

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一方で、当時平松守彦知事は「一村一品運動」を提唱。市町村ごとに、最低一つは特産品をつくろうというもので、全国的にも話題になっていた。麦焼酎「いいちこ」がそのシンボルとなった。この運動の理念は、各地域の特性、個性を生かしていこうというものであった。

しかし、その後国が進めた平成の大合併はその真逆の考え方で、個を殺し効率を優先するものだった。

私がいたころは県内には、8市のほかに36町、11村があり、私は森林組合相手の仕事をしていたので、それぞれの名前には愛着がある。大半の市町村に足を運んだ。

今回調べたら、町村でいまでも残っているのは、わずか3町(日出町、玖珠町、九重町)、1村(姫島村)だけで、なんと43町村が消えたことになる。一方で、由布市、豊後大野市、国東市という新しい市ができている。

地名は文化である。大分県は、それこそ「おおざっぱ」な県になってしまった。高知県でも合併が進められたが、これほどまでには減っていない。その中で、わが中村市も合併で四万十市に名前を変えたのだから、大分のことをとやかくはいえない。

いまの東京への一極集中、弱肉強食の政策によって、日本全国で「地方創生」どころか、「地方つぶし」がおこなわれているということだ。

鶴崎、大在、坂ノ市を通り、佐賀関に着いた。佐賀関は、関アジ、関サバで有名になった。この沖に職場で釣りに来たことがあるが、当時はそんな名前(ブランド名)はなかったような気がする。前の晩、少し食べたが、なかなかの値段で、そう簡単に口に入らない高級魚になってしまった。

旧佐賀関町も大分市に吸収された。

もう一つの佐賀関名物、旧日本鉱業銅精錬所の高さ200メートルの煙突に見送られ、フェリーは岸壁を離れた。さらば大分、また来ます。(終り)

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大分へ(3)

大分駅前のホテルに泊まったので、フリーになった2日目は一番に目の前の駅に寄ってみた。

大分駅は2年前リニューアルされており、見違えるよう。駅ビルは専門店街となりシネコンも入っていた。大分特産品を販売する広い売り場の品ぞろえもすばらしい。専門店入口には、オープンを待つ人たちのかたまりができていた。

新しいJRホテルもでき、屋上には(のぼらなかったが)空中温泉もできていた。
正面広場には、大友宗麟像とザビエル像が。

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駅裏へは通り抜けになり、大きな広場ができていた。以前駅裏には、大分鉄道管理局時代の野球部のグランドが残っていた記憶がある。ほかはがらんとした殺風景なものであったので、驚きである。

表も裏もない、駅全体が新しい「まち」になったことで、商戦では地域一番店だったトキワデパートも安閑としていられなくなったのではないだろうか。まちの中心軸が変わったような気がする。

別府に向かうことにし、途中の西大分で柞原神宮(豊後一宮)に寄った。山の中腹、うっそうとした森の中にあった記憶そのままであり、往時と同じく異様な神霊を漂わせていたが、本殿に大友宗麟奉納太鼓があることは初めて知った(気づいた)。宗麟は、どこまでも私についてくる。

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別府で大学時代の友人に会ったあと、鉄輪温泉、明礬温泉を通って、安心院(あじむ)に向かった。途中にアフリカンサファリがあった。このサファリは私がいた40年前にオープンしたもので、一度だけ入ったことがある。全国のこの種の施設はバブル後ほとんど閉鎖されたときくが、ここはまだ残っていた。

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最近は温泉人気で別府への観光客が増えているそうだから、そうした客をうまくとりこんでいるのだろう。そういえば、NHKブラタモリでも2回にわたり紹介されていたなあ。

安心院へは、前の日も会った「あめんぼ」の古参メンバーの一人、堤記夫さんを訪ねた。堤さんは、20年目くらい前、大分市内から移住し、地鶏を放し飼いしている。

私がいたころ、安心院町は町の特産品とすべくぶどうの普及を進めていたが、それがうまくいかず、多くの農園跡地が放置された。町も合併し、いまは宇佐市の一部になった。そのぶどう農園跡地に堤さんが「入植」したのだ。

安心院は由布岳の裏側に広がる高原地帯であり、ここまで来たのは初めて。のどかな田園風景が広がっていた。大自然の中で、畑を耕し、果樹を植え、地鶏と一緒に暮らす。新鮮卵は大分市内の有名洋菓子店に送られ、おいしいシフォンケーキに変わる。たくさん卵をいただいた。以前のイメージとは一変した、大地の中で暮らす堤さんの生活をうらやましく思った。

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帰りには道を少しそれ、別府湾を一望できる十文字原展望台に立った。噂には聞いていたが、はじめて。佐賀関から国東半島まで、ぐるり目の中に飛び込んできた。冬の晴れた日には、四国まで見えるそうだ。

別府湾には、過去に瓜生島という島があったが、慶長豊後地震(1596)で一夜にして海の底に沈んだという記録が残っている。私がいた当時本格的調査が行われ、ほぼそれが真実だということがわかり、話題になっていた。しかし、いまはその地震が愛媛県の伊方原発沖を通る中央構造線断層が動いた地震であったことで注目を浴びている。

去年の熊本地震では別府周辺も被害を受けている。中央構造線は長野県から大分、熊本までつながっている。そう思うと、目の前のパノラマが不気味な光景に見えてきた。(続く)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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