二つの成人式(続き1)

きょうは「成人の日」。
各地で行政主催の成人式が行われているが、四万十市では1月3日、今年も会場を2つに分けて(中村地域、西土佐地域)行われた。

2005年4月、旧中村市と旧西土佐村が合併して誕生して四万十市になってから12年を過ぎているにもかかわらず、いまなお統一されていない。県下34市町村で会場を2つに分けているところは、ほかにはない。

実は、四万十市(主管・教育委員会)でも4年前、2014年の成人式からは統一することをほぼ決めていたのだが、そうはならなかった。

その経過については、2年前のこのブログ(2016.1.13)で詳しく書いているので繰り返さない。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-226.html

私はこの中で早急に一本化をしたほうがいいと提言をしたのだが、その後、再度検討されることもなく、ズルズルといまの状態が続いている。

そうした中、1月6日付高知新聞コラム(後掲)で、西土佐地域の成人式のもようが紹介されたので、もう一度私の意見を述べておきたい。(四万十市で今年成人を迎えたのは、中村地域281人、西土佐地域27人。)

一つは、行政運営は公平平等が基本であるということ。

行政が合併をするということは大事業であり、両者の融合には一定の時間が必要なことはやむをえない面があるが、10年を過ぎてもなお「1市2制度」が続いていることは異常といえる。

全市民が納得する明確な理由があれば別だが、漠然と「遠くて不便」ということだけでは、ほかの行事等でも同じことであり、それらは段階的に克服してきている。遠いということだけなら、中村地域の富山地区も大差はない。

二つは、成人式は自治体にとって最も重要な行事であるということ。

地域の将来を担うのは若者である。成人式は、若者たちに四万十市の将来を託す場であり、市にとっては最も重要は行事といえる。

その若者が一堂に会することができないということは、市にとってゆゆしきことである。

いま市内には、ほぼ旧市町村単位で中学校が11ある。(中村市は1954年旧11町村合併)この中で、西土佐地域の成人式参加者は全員が西土佐中学校卒業生である。だから、同じ中学校の同窓会のようなものである。

それはそれで、手作り感のあるほのぼのとしたものであるが、それならば他の中学校卒業生にもそんな場をつくってやってほしい。

しかし、同窓会は普通それぞれが自主的に行うものであり、行政が主催する成人式は、市内の新成人全員が同じ場で心を一つにして将来を決意する場であってほしいし、そうあるべきであると思う。市民もそれを期待している。

普段は知らない顔の面々が一堂に会することで、おなじ四万十市に生まれたという連帯感ができるし、これを機に、交流も深まるというものであろう。

いまの状態では、行政のほうで若者を分断していることになる。また、西土佐の若者から、その場(チャンス)を奪っていることにもなる。

西土佐の青年たちは、広く四万十市のためというよりも、村意識を脱せないままの「井の中の蛙」状態が続くのではないか。

三つは、合併の原点に立ち返るべきであるということ。

2005年4月、四万十市が誕生するにあたっては賛否両論いろんな意見があった。しかし、そんな激しい議論を経て合併した以上、統一すべきものは統一しなければならない。

中村や西土佐それぞれの地域の伝統文化等を守っていくことは大切であり、私もそう心掛けているが、それとこれとは別物である。

それがいやというのなら、そもそもなぜ合併をしたのか。
もうあと戻りはできないのだ。

以上

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高知新聞 記者コラム 2018.1.6

土佐一条物語

一條教房が応仁2年(1468)京から中村に下向してから今年で550年を迎えるにあたって、このほど格好の読物が出版された。

吉良川文張「戦国史話 土佐一条物語」(飛鳥出版室、2017年9月刊、270ページ、1000円)である。著者は高知市在住の土佐史談会会員。

土佐一條家100年の歴史を、主に長宗我部との攻防を軸にまとめた通史である。これまでの類似の本は、ほとんどが歴史研究者の論文であったが、この本は、一般の人でも読みやすいように、著者の推理を加えて、物語風に書いている。

とはいっても、歴史小説のような創作ではなく、基本部分はしっかりとした専門家の研究成果に基づいて(引用も多い)、推論は最小限にとどめている。

読み応えがあるのは後半の一條兼定と長宗我部元親との対決。ここでは、最近発見された「石谷家文書」による新しい知見(研究成果)がふんだんに盛り込まれている。

これまでは、兼定は暴君とされ、元親による調略もあって、家臣から豊後の大友宗麟のもとに追放されたとされてきたが、実際は、その裏には京都の一條家本家の思惑があった。

勢力を増す長宗我部には勝てないとみた本家は、元親と密通し、分家(土佐一條家)を存続させるために、兼定の息子内政に継がせ元親娘を娶らせることにより元親を後見人にするという取引ができていたのだ。

実質的には元親の軍門に下ることになるが、形式的には分家は存続させるというもの。公家のメンツである。

元親にしても、中村の一條家には、父国親が受けた過去の恩義があり、また京都の朝廷や信長、秀吉などからは、当時、格下の元親は一條家の家臣と見られていたことから、中村を武力で攻め落とすことは躊躇されたという、両者の思惑が一致した。

このあたりについては、四万十市の郷土史家東近伸氏の研究成果を引用しており、ここでも以前にもっと詳しく紹介をしている。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-292.html

また、著者は、兼定が最後に逃げ延び、墓もある宇和島沖の戸島にはまだ行ったことがないようであり、戸島のもようは私の訪問記録(高知新聞投稿)を引用してくれている。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-36.html

戦国期土佐においては、公家の一條家は別格の存在であった。その中で、他の7人の有力武将の中で、長宗我部が台頭し、ついに土佐を統一し、さらに四国制覇を果たすプロセスもわかることから、この本は「長宗我部物語」でもある。

土佐の戦国史に興味がある方は、ぜひ読まれることをお勧めしたい。
ネットでも購入できる。

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土佐一條550年

今年は、前の関白一條教房が応仁2年(1468)、中村に下向してきてから550年になる。

教房は摂関家である一條家のトップ。父は大学者と言われた兼良。
摂関家とは天皇家とも婚姻を結び、摂政関白を出すなど、政治の中枢に君臨する有力公家であり、五家(ほかに、二條、九条、近衛、鷹司)だけであった。

関白は、いまでいえば総理大臣。
そんな大物が中村にやってきたきっかけは、京都を戦場として前年に始まった応仁の乱。京都は炎上し、御所に隣接する一條家屋敷も燃え落ちた。

教房は弟がいる奈良興福寺にいったん避難したが、翌年、家人を引き連れて、堺から船で中村をめざした。中村周辺は一條家の荘園、幡多の荘であったからだ。

教房が中村までやってきたことについては諸説あるが、戦火をのがれるためであったことは間違いがない。都が戦場にならなければ、わざわざ僻遠の中村まで来ることはなかったろう。

しかし、理由はそれだけではなかった。戦乱が終結してからも京都には帰らなかったことでわかる。

教房は一條家を分家し、新たに土佐一條家を立て、息子の房家に継がせた。

中村を気に入ったのだろうか。それもあるだろうが、地元国人たちに荒らされようとしていた幡多の荘を直接管理(直務支配)することで、京都本家の再興を助ける道を選んだのだ。

中村に骨を埋める覚悟をした教房、房家親子は、中村のまちづくりに励んだ。モデルにしたのは当然京都。

以来、土佐一條家は、当時としてはめずらしい公家出身の戦国武将(公家大名)として、房冬、房基、兼定と、100年続く。

いま、全国には、「小京都」を名乗るまちはたくさんあるが、その本家本元が中村であると言われる所以はこんなところにある。

そんな由緒ある中村市は2005年合併で市の名前こそ変わってしまったが、もちろん中村のまちは中村のままである。

四万十市では、今年いっぱい市をあげて「土佐の小京都中村550年祭」を行います。

四万十市は四万十川だけではありません。
ぜひ、みなさんお出でいただき、「公家がつくったまち」の歴史と文化を堪能してください。

紅白歌合戦

今夜は大みそか。恒例のNHK紅白歌合戦がある。
しかし、若いころは必ず見ていたが、だんだんと見ることが少なくなってきて、最近はほとんど見ない。

名前を知らない若い歌手ばかりで、見てもおもしろくないからだ。音もガンガンとうるさい。振付が激しく、歌ではなく、まるでダンスショーを見ているようだ。

かといって、年末ぐらいはゆっくりテレビを見てくつろぎたい。去年は録画をしていた寅さんの映画を見た。今年はどうしようかと思っていたら、きょうは朝からNHKBSで黒沢明シリーズをやっていたので、ちょうどいい。5作全部録画をした。その中から「七人の侍」を見ることにしよう。

紅白歌合戦の視聴率を調べてみた。1963年の81.4%が最高で、80年代までは70%をキープしていた。さすがに最近は、40%台まで落ちて来て、去年は40.2%だ。しかし、それでも「お化け番組」であることに変わりはない。

昔の記憶では、出場歌手はその頃の若い子ばかりでなく、ベテランも大勢出ていたような気がする。だから、家族みんなで楽しめた。

しかし、NHKの方針が変わったのだろうか、だんだんとベテランは隅に追いやられている。肩身が狭く、遠慮しいしい歌っているようで、気の毒だ。

それとも、昔から、紅白はその時代の若手歌手が中心であったのに、自分のほうが年をとったため、知らない歌手が多くなっているということだろうか。

時代についていけないのは、自分かもしれない。

しかし、そうであったとしても、少子高齢化のいまの時代、人口に占める若者の比率はドンドン落ちてきている。それならば、NHKとしても、もう少し高齢者にウエイトを置いた編成にしたほうがいいのではないだろうか。「思い出のメロディー」のような要素も加味してほしい。それならば、見てもいいと思う。

来年、前期高齢者に入る者のひがみだろうか。

相撲部屋の力

終戦直後の昭和21年正月、大相撲の横綱双葉山一行が中村に来て「幸徳秋水35年忌追善興行」を行ったことは、12月7日付記事に書いた。

この相撲を見た地元の生き証人を探していたところ、見つかった。その男性は昭和11年生まれというから、9歳の小学生の時である。家族に連れられて見たという。

場所は新聞予告記事にあった一條神社ではなく、天神下(いまの市役所西)であった。そこには常設の土俵があった。

双葉山以外に、大関佐賀ノ花、力道山、神風なども見たというから、間違いないであろう。

「幸徳秋水・・・」については、わからないということだが、これは子どもには当然であろう。

今回いろいろと調べてわかったのは、当時相撲巡業は部屋別に行なっていたということ。

双葉山は立浪部屋。高知県に入る前の月の11月場所をもって横綱を引退していた。佐賀ノ花以下は二所ノ関部屋。こんな組み合わせで、終戦直後の混乱期になぜ高知県に巡業に来たのか?

考えられるのは、二所ノ関部屋再興の功労者が高知市出身の横綱玉錦であったということ。玉錦はすでに横綱現役中の昭和13年急病で亡くなっていたが、高知は二所ノ関部屋にとって縁深い地であった。スポンサーも多かったことだろう。

終戦直後の東京は食糧難。しかし、地方は食い物がある。

引退したとはいえ大横綱双葉山の看板は大きかった。立浪部屋の双葉山を借りて、二所ノ関部屋の力士たちが食糧を求めて高知県(8か所)にやって来たのではないか。

「幸徳秋水・・・」は、勧進元の高知県労働組合協議会が客寄せのためにつけたものであろう。

東京にある相撲博物館(相撲協会運営)に問い合わせたところ、当時の細かい記録はないが、昭和20年11月場所終了後、双葉山は四国巡業に出たあと、翌年1月京都で土俵入りをしたという雑誌記事があるとのことであった。

いま相撲協会が揺れており、きのうの理事会で貴乃花親方の理事解任という方向が決まった。(最終的には評議会で決定)

貴乃花がこの間強気を押し通してきた背景には、相撲部屋のほうに力があるからだと言われてきた。相撲協会は各部屋の寄せ集めにすぎず、事実上部屋は協会から独立をしていると。

協会に統率力(ガバナンス)がないということが、この問題をここまでこじらせている。

昭和21年、中村に来た巡業は二所ノ関部屋が主導(主催)したものだった。
今回の騒動の根深い背景がわかった。


遠近鶴鳴

いま遠近鶴鳴について考えている。中村町民文化の祖として。

中村を支配したのは、一條家100年のあと長宗我を経て山内に移る。土佐に入った山内一豊は、中村だけは独立した中村藩2万石(のち3万石)として弟康豊に分け与えた。

しかし、元禄2年、中村藩は5代直久の時、将軍綱吉の命で取り潰しになり、のちに本藩(土佐藩)に吸収される。家臣は録を失い、散り散りになり、中村土着の武士はいなくなる。

土佐藩直轄の代官所が置かれ、わずかに転勤族の武士が高知から赴任するくらい。ほかには、一応広い意味の武士には分類されるが普段は百姓と同じ郷士。中村は町民中心の町になった。

士農工商の身分制度が定着してきたこの時代、学問は武士がするものであった。
しかし、中村には武士はいなくなった。

中村には、一條家が京からもたらした学問風土があった。これを受け継いだのは、中村の商人たちであった。

遠近鶴鳴は、寛政7年(1795)、中村の有力商家宇和屋に生まれた。商売の仕入れなどで京大阪に出たさい、学問を学んできた。大阪の篠崎小竹、京都の岩垣松苗などから、朱子学、国史国学を。

そして地元に私塾鶴鳴堂を開き、多くの門弟を育てた。門弟には、樋口真吉、安岡良亮などがいる。真吉は足軽、良亮は郷士。少し若い商家吹田屋の木戸明はこの二人から学んだ。

さらに木戸明から学んだのが商家俵屋の幸徳秋水。同世代の藤倉忠吉(民権家から中村町長に)も商家堺屋であった。

秋水の場合は少し複雑で、幸徳家は商家だが、母多治の出里小野家は一応武士(郷士)であった。当時としては、めずらしい縁組であった。

安岡良亮の母も同じ小野家(多治の伯母)であることから、良亮と多治は従兄妹であった。

秋水の親戚は商家と武家が混在しているが、学問的薫陶を受けたのは、母方の親戚のほうからである。

郷士と有力商家とは実質的にはそう大きな身分差はないのだろうが、それでも郷士は武士である。

秋水が一緒に遊び、学問も学んだ親戚の子どもたちは武士が多かったのに自分は商家。

秋水が、のちに平民社、平民新聞と「平民」にこだわったのには、このような背景があったのでは。

一條時代からの学問の受け皿となり、発展させたのは遠近鶴鳴を筆頭に中村商人であった。だから、俵屋の秋水もその流れを受け、木戸明の遊焉義塾に通った。

しかし、一方には武士(郷士)もいた。そうした複雑な学問風土の中で幸徳秋水が生まれたといえるのではないだろうか。

遠近鶴鳴は天保15年(1844)没。
墓は中村羽生山にある。

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早坂暁

脚本家の早坂暁さんが亡くなった。88歳。

最近はいいテレビドラマが少なくなったと思っていたところだった。以前には、いいドラマがたくさんあった。

といっても、当時は私もいまより若かったのでよくわからないまま見ていたが、いまになってから、つくづくそう思う。

早坂暁の名前を知ったのは、ドラマ「夢千代日記」あたりから。続いて、「花へんろ」も。「事件」シリーズもあった。

学生時代のころの痛快時代劇「天下御免」も早坂作品だったとは、あとから知った。平賀源内さんだ。全部NHK。

山田洋次が映画にした「ダウンタウンヒーローズ」の原作も早坂さんだ。

「いいドラマ」とは、しみじみ考えさせる、人間の機微や本質に迫る作品といえるだろう。余韻が残り、記憶の中で発酵を繰り返し、芳醇な味が無限にかもしだされていく。

最近は、笑いやエンターテイメントばかり追っかけている。だから、見ているときは、それなりにおもしろくても、すぐに忘れてしまう。

そんな脚本家は少なくなった。山田太一は元気だろうか。最近作品を見なくなったので心配だ。

中村出身の中島丈博もそうだ。最近も何か書いているのだろうか。みんな、もう80歳代になっているだろうから、仕方がないことかもしれないが・・・

早坂暁は上林暁と名前が同じ、「暁」だ。ともに、ペンネーム。

早坂さんは、上林ファンだったと聞いている。上林の地元、旧大方町にも文学講演に来ている。名前は先輩上林からとったのではないかと思うが、これははっきりしない。

早坂さんは、上林のことを、四万十川の沈下橋のような人だと書いている。「激流を耐えて、流れがおさまれば、ふたたび水上に姿をみせる」「不愛想とも、頑固とも、愚直ともみえる」ところが、そうだという。

それは、早坂さんにも言えることだろう。

「夢千代日記」は原爆が影のテーマ。早坂さんは、目立たなかったが、平和問題とか、いろんな社会問題に対しても発言をされていたように思う。

ご冥福を祈ります。

元号と西暦

現天皇の退位に伴い、再来年5月1日から新元号となる。私の頭の混乱はますますひどくなり、もう限界を超えそうだ。

私は歴史が好きである。歴史的事件や出来事はなるべく西暦で覚えるようにしている。日本史も世界史の一部であるから、そのほうが統一して理解しやすい。

普段のいろんな書類も、指定がない限り、西暦で書くようにしている。

日本史で言えば、明治以前は西暦で表記されるのが一般的であるため、そう悩まないが、明治以降は、両方併用されることが多い。

だから、いつの間にか、自分の頭に、明治元年=1868年、大正元年=1912年、昭和元年=1926年、というような換算ソフトがインストールされている。例えば、明治〇〇年は西暦〇〇年だなと、常に読み替えている。

こうした作業を何度も繰り返すうちに、両方の年号は自然に一致するもので、そう苦労はしてこなかった。

ところが、平成になってからおかしくなった。平成元年=1989年なのだが、この換算がうまくいかなくなった。いつも、う~ん? と苦しんでしまう。頭の中のパソコンが作動しなくなり、ソロバンでぱちぱちやるようになった。

なぜだろう。

自分なりに考えると、明治、大正、昭和は、自分とは直接関係がない過去の出来事として、客観的にインプットできるのに対し、平成は、いまの自分の生活そのものであるため、個人的な種々雑多な要素が混入してくるためではないかと思う。

もちろん、昭和28年(1953)生まれの自分にとっては、昭和の一部も自分の生きた時代であることには違いないけれど、換算のスタートとなる昭和元年は過去だ。そこが平成とは異なる

そんなことで、このうえに、さらに再来年から新しい元号が加わると、私の頭の中はパニックになってしまう。

いま、新しい元号がどんなものになるかが話題になっており、さかんに報道されているが、元号が果たして必要かどうかの議論はほとんど報道されない。(これには不気味さを感じる)

私は、元号は不要だと思う。
いまのインターナショナルの時代、世界に通用しない元号なんて、国民に無用な負荷と混乱を強いるだけである。



横綱双葉山と秋水

いま相撲界は日馬富士、白鵬問題で混乱している。横綱の品格とはどうあるべきかをめぐって。

そこで出てくるのが双葉山。誰もが認める「大横綱」として伝説化されている。69連勝は、いまだ破られていない。

その双葉山が、終戦直後の昭和21年、中村に来て幸徳秋水の供養のための相撲をとったということを、このほど知り、驚いた。

幸徳秋水を顕彰する会では、毎年1月24日の秋水刑死日に、墓前祭を行っている。この墓前祭の始まりは昭和21年。

秋水は戦前、天皇の命を奪おうとした「極悪人」「逆賊」とされ、名前を語ることさえタブーとさてきた。秋水墓はもちろん、墓のある正福寺前の道を通ることさえ、はばかられたことであった。

しかし、戦後はその「重し」が取られ、人々は真実を知るようなると、今度は秋水は革命児として英雄視されるようになった。

時代転換の雰囲気のなかで、幸徳家(当主富治)は最初の墓前供養を堂々とおこなった。親族一同に、支援者なども集まって。

そうした当時の高知新聞記事をさがしていたところ、別の記事(昭和20年12月24日付)に双葉山の名前を見つけたのだ。

それによると、横綱双葉山、大関佐賀ノ花らの一行100余名は、終戦の年の昭和20年12月25日から翌1月9日にかけて、高知県内8カ所で「戦災者援護、海外同胞救援義捐興行」をおこなった。主催は高知県労働組合協議会、後援高知新聞社。

会場は、高知、田野、赤岡、宇佐、中村、仁井田、須崎、山田の8カ所。このうち中村では、1月1,2日、「幸徳秋水三十五年忌追善興行」と銘打って一條神社境内で行ったというのだ。

終戦直後に相撲興行というのは、いかにも相撲どころの高知県らしいが、8月15日の終戦からわずか4カ月後に迎えたというのは、ビックリだ。

主催が労働組合というのも、新時代到来を象徴している。労働組合だから、秋水となった面もあるだろうが、当時のヒーロー秋水の名が客集めに利用された面もあるだろう。

どれだけの人が集まったかの記事はないが、大いに盛り上がったのではないだろうか。

県下興行には、アメリカ進駐軍1000余名も招待し慰安する、ともある。これも時代の象徴。

秋水墓前祭は、昭和25年からは労働組合(幡多地区全労働組合協議会、のち中村地区労)主催となり、その後平成13年(2001年)からは、幸徳秋水を顕彰する会に引き継がれ、いまに続いている。

原尻の滝

きょう12月4日から、NHK「とうちゃこ」の火野正平さんは大分県に入った。
大分は私が就職して初めて赴任した地です。
採用はされませんでしたが、番組宛に以下の手紙を書きました。


  心の風景 原尻の滝

正平さん、スタッフのみなさんこんにちは。

私の心の風景は大分県豊後大野市旧緒方町にある原尻の滝です。

私が昭和51年大学を出て就職したのは東京に本店がある農協系金融機関(農林中央金庫)でした。

受け入れ研修後、最初は支店に配属されるのですが、私の行先は大分でした。大分にはそれまで行ったことがなく、不安な気持ちで生まれて初めての飛行機に乗って赴任しました。

職場には農協現地研修という制度がありました。新人に2週間みっちり農協現場の仕事を体験させるというものです。私がお世話になったのが緒方町農協でした。

私は組合長さんの家に泊めてもらうことになり、毎日緊張しながらも、奥さんがつくってくれるあったかい弁当を持って、駅近くにあった農協に通いました。

貯金窓口、ライスセンター、ガソリンスタンドなどいろんな業務を体験しましたが、印象に残っているのが農協の移動購買車に乗せてもらったことです。

緒方川の最上流部山中の尾平や上畑という集落にも行きました。マイクを流すと、農作業姿の女性たちが三々五々集まってくる。どんな奥地でも組合員がいる限り食料や日曜雑貨品を届けなければいけない、という農協の使命を身をもって教えられました。

その際、連れていってもらったのが原尻の滝でした。田んぼの真ん中で川幅が広くなった緒方川に突然底が抜けたような大きな段差ができ、水がドドーンと落ち込んでいる。

私はナイヤガラの滝には行ったことがないのですが、「東洋のナイヤガラ」と言われるだけあって、流れ落ちるすさまじい水量とけたたましい水音は、まさに「瀑布」という表現がぴったりです。

滝の下に降りると、広い滝壺の周りがぐるり水しぶきをかぶり、この世ではないような異様な景色でした。日本の滝と言えば山の上から落ちてくるものがほとんどであり、後にも先にもこのような形の滝には出会っていません。大分にいた3年間、この滝に魅せられ何度も通いました

緒方町はその後合併で豊後大野市となり、また緒方町農協も同じく、ぶんご大野農協から、いまは大分県農協となりましたが、社会人としてのスタートを切らせてくれた旧緒方町は私にとって第二のふるさとのようなものであり、そのシンボルが原尻の滝なのです。

正平さんもぜひこれぞ「瀑布」を訪ねてみてはどうですか。きっと、ビックリしますよ。


 高知県四万十市 田中全 64歳

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 豊後大野市ホームページより



プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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