続々 西村ルイのこと  秋水最初の妻(2)

 ところで、黒木訪問に先立つ今年一月末、私は大逆事件犠牲者追悼集会に参加するため上京した。そして集会の翌日、「秋水の孫」に会った。

 秋水とルイの間に生まれたハヤ子(横田姓)は小谷清七と結婚し六人の子を育て上げた。このうち男四人はすでに亡いが、女二人はいまも健在。

 私は集会に参加していた横田みつゑさん(ハヤ子の横田家側孫の嫁)にお願いして、埼玉県草加市の小谷家(実家)の近くに住む、六人の中で一番年上の真野寿美子さんのお宅に案内してもらった。

 寿美子さんは若いころはさぞかし美人であったろう。小柄で気品がありもの静か。かすれた小声で祖母(ルイ)からも母(ハヤ子)からも秋水のことは「ほとんど聞かされていないんですよ」。

 家族の間で秋水の話はタブーであったのだ。しかし、これまで知らなかった家族の話をいろいろ聞かせてもらった。古い写真も出してきてもらった。昭和十八年の写真を見ると、ハヤ子と寿美子さんの黒くて鋭い眼は秋水そっくりであり、ドキリとさせられた。

 私は辞する時、「一度おじいさまのお墓参りに来られませんか」とお誘いをした。しかし、寿美子さんは九十歳(大正十四年生)という高齢のうえ、病気のあとで体力も十分でない様子から、とても中村までの長旅は無理であろうと思ったし、寿美子さんからも特段の反応はなかった。

 その後も電話でのやりとりは何度かあったが、四月中旬になって、寿美子さんの夫から手紙が届いた。そこには、体が動くうちに「長年気になっていたこと」を果たしたいという寿美子さんの気持ちが書かれていた。

 寿美子さん夫婦は、妹の犬竹比佐子さん(昭和十六年生、七十四歳、東京都新宿区)夫婦を誘い、五月十日、四人で見えられた。

 私は雨の中、高知空港に迎えに行った。寿美子さんは、車いすに乗ってゲートから出てこられた。同じ飛行機で、幸徳正夫さん(秋水義兄駒太郎ひ孫)と大岩川嫩さん(大逆事件の真実をあきらかにする会)も来られた。

 十一日、雨もあがり、一行が泊まっていたロイヤルホテル裏の正福寺秋水墓に、幸徳秋水を顕彰する会有志で案内した。

 孫二人は「祖母を会わせたかった」とルイの写真をもってきて秋水に対面させた。幸徳家は神道。榊と花を差し、水をかけ、お米をパラパラと撒いてもらった。それからじっと手を合わせた。

 墓前で幸徳正夫さんが幸徳家を代表して挨拶し、秋水がルイと離縁するにさいしての非礼を詫びた。墓の中で秋水は神妙に聞いただろうか。照れ笑いをしていたかもしれない。

 ホテルロビーで新聞記者からインタビューを受けたあと、為松公園の秋水記念碑(絶筆碑)、郷土資料館、図書館秋水資料室、生家跡なども案内した。

 ホテルで歓迎昼食会を行い、夜は「常連」でアユ、ウナギ、かつお塩たたきなど、「おじいさん」のふるさとの味を楽しんでもらった。みなさん、めずらしい料理に驚きながら、舌鼓を打っていた。

 十二日、新聞各紙に記事が大きく載った。

 午前中、佐田沈下橋にご案内。快晴になり、空の青と川面の青がまぶしかった。気持ちいい川風。一行を歓迎するように帆をかけたセンバがのぼってきたので、めずらしそうにカメラにおさめていた。

 姉の寿美子さんは川を眺めながら、「こんなに山が多いところとは思わなかった」「遠かったが来て本当によかった」と、しみじみと言われた。

 妹の比佐子さんも、「秋水のことは身内と思っているので、地元のみなさんが秋水をこんなに大事にしてくださっていることはありがたく、これをご縁にいろんな関係が深まればいいと思います」と。

 午後、空港まで送り、一行は東京に帰って行った。
 秋水が刑死してから一〇五年。

 「秋水は身内」・・・恩讐を超えた墓参により、秋水生涯の汚点に一つのけじめがついたように思う。 

 私は胸のつかえが下りた気持ちであり、四人には心からお礼を言いたい。

 寿美子さんには子供はいないが、比佐子さんをはじめ四人の弟たちには、あわせて十人の子供(秋水のひ孫)がいる。さらにその下の子供たち(玄孫)たちも。

 今後はこした人たちとの交流も広げていきたいと願っている。

 (終)

 「文芸はた」創刊号 2016.12

続々 西村ルイのこと  秋水最初の妻(1)

  正 2015. 7.23~25
  続 2015.12.26~30

 「文芸なかむら」に二回投稿して以降判明したことや、新たな展開を中心に書かせていただきたい。

 私は今年四月下旬、西村家のルーツ、歴史を調べるため、福岡県黒木町(現八女市)を訪ねた。黒木町は柳川市で有明海に注ぐ矢部川の上流、熊本県境の奥八女と呼ばれる山の中であった。八女茶発祥の地といわれるお茶どころで、さらに奥に遡れば大分県に続く。

 西村ルイは明治十五年ここで生まれた。しかし、父正綱は一家を引き連れ、同二十二年福岡市へ出て、さらに同二十七年(ルイ十二歳)、旧久留米藩士が先に入植していた福島県安積開墾地に移っている。西村家は江戸時代から続く黒木町屈指の「豪家」であったといわれていたのに。その理由は謎である。

 私は西村家現当主の賢一氏(佐賀県鳥栖市在住)と、黒木町在住郷土史家和田重俊氏にあらかじめ連絡をとり、現地で合流した。お二人とは一年前から電話と手紙で情報交換をしてきたが、お会いするのは初めて。

 最初に西村家墓地を案内してもらった。墓地は宗真寺(浄土宗)の裏山の杉林に囲まれた一段にあった。私はオッとうなった。墓石が縦横に「群れ」をなしていたのだ。その数約三十。木漏れ日の中に黒光りする異様な霊気を感じた。

 墓石は奥から古い順に並んでいた。一番古いものは元禄時代。古い墓石は戒名だけのものが多く、実名がわかるものでは、長兵衛藤則、長兵衛藤光、宗右衛門藤光らの名があった。これまでの調査で名前がわかっていたルイの前の四代、正綱、恕平、良平、二兵衛の墓は手前のほうにあった。『篤行傳』に紹介されていた仁兵衛、良平親子とは、二兵衛のことであろう。

 幕末に書かれたと推定される久留米藩主有馬家文書に主要家臣の家系を記した「御家中略系譜」があり、その中に「西村家」があるが、今回その記述が墓に刻まれた名前と一致することがわかった。

 「略系譜」によれば、西村家は元の姓藤原で本国は近江の国。関ケ原の戦いで東軍についた三河岡崎城主田中吉政が功労により慶長六年(一六〇一)、筑後国柳河城に移ったさい、吉政に従ってきた奉行西村五右衛門正常が始祖であった。

 五右衛門は黒木にあった旧城(猫尾城)を任せられた。しかし、田中家は後継ぎがなく二代で改易に。田中家のあと黒木を治めることになった有馬家からも仕官を求められたが、西村家二代目宗右衛門藤正はこれを辞退し、そのまま黒木に土着した。

その後、三代仁兵衛藤義、そして墓のあった四代長兵衛藤則に続いていた。そして、五代長兵衛藤光、六代宗右衛門藤輝・・・この頃有馬家家臣となった。

 しかし、墓があるのは七代二兵衛久隆までで、八代簡治文禮以降はなかった。代わって、簡治の弟良平の墓があり、恕平、正綱と続いていた。おそらく、簡治は久留米城下に居を移し、黒木には弟良平が残り、実質的に黒木の西村家は良平が継いだものと推測される。

 ルイは福島入植二、三年後に秋水と結婚。父正綱は入植九年後没。長男軍次郎(ルイの兄)は、その後東京に出て繊維関係の事業を始めた。しかし、関東大震災で失う。息子稔(賢一氏父)は朝鮮に渡り電話関係の仕事につき、敗戦後福岡県に引き揚げてきた。稔は、昭和五十六年、西村家墓地に納骨堂を建て、東京から軍次郎の遺骨を移した。後に、自分も入った。

 郷土史家の和田氏から見せてもらった元禄十三年(一七〇〇)古地図に長兵衛の名が載っていたことから西村家屋敷跡も特定できた。

 場所は町の中心素盞嗚(すさのお)神社の前。同神社境内には樹齢六百年といわれる藤の大木があり、ちょうど花が満開で多くの観光客で賑わっていた。実は今回、有名なこの藤の花の満開の時期に合わせて訪ねたのだった。

 神社に面して後藤酒造という延宝五年(一六七七)創業の古い酒蔵があった。ここの酒の名はなんと「藤娘」。その隣が西村家屋敷跡であった。

 九十五歳の町の古老から、西村家は徳が厚く、屋敷には井戸が五つあったという言い伝えを聞いた。

 黒木町の「町の花」は藤であり、合併後の八女市もこれを引き継いでいる。中村市→四万十市と同じである。

 西村正綱は西南戦争で西郷方に肩入れをして財を失ったと言われているが、福島に渡った理由はそれなのか。ほかに理由はなかったのか等は、今回調査ではわからなかった。

 しかし、秋水の縁に藤の縁。今後両地の交流を深めたい、また訪ねたいと願って帰ってきた。(続く)


 「文芸はた」 創刊号 2016.12

中村の誇りを全国に

 地元中村高校のセンバツ甲子園出場が決まった。田頭主将、山沖投手ら「二十四の瞳」の活躍で甲子園準優勝して以来40年ぶりの快挙だ。

 うれしさで体がブルブル震えてしまう。県立高校、しかも郡部の高校が勝ち進むことは、当時もいまも容易ではない。しかし、1、2年生による「三十二の瞳」の新チームは、伝統の固いチームワークと、夏の大会準優勝の先輩たちが残してくれた勢いをしっかりと受け継ぎ、秋の県大会で優勝した。堂々たる勝ちっぷりだった。 

 思えば40年前、地元を離れていた私は、それまで全国的に無名の出身地を説明するのに苦労をし、時には引け目を感ずることもあったが、一躍中村が有名になったものだから、鼻高々であった。ふるさとへの自信と誇りをもたせてくれた。

 しかし、あれから周りは大きく変わった。人口が減り、こどもが減る一方で、観光面では四万十川が注目を浴びるようになった。また、県立校改変で中村高校には中学が併設された。

 こうした流れの中で、中村市はなくなったが、中村のまちはいまも中村である。駅も郵便局も、幼稚園、小学校、中学校も。そして中村高校も。

 中村高校の甲子園での活躍で、中村は健在であること、そしてその誇りある名を全国に知らしめてほしい。


 高知新聞「声ひろば」投稿
 2017.2.5

 中村の誇りを全国に


 

夢をもう一度 -夏をめざす中村高校野球部裏話―

 中村高校のセンバツ甲子園出場が決まった。
 40年ぶりに夢がかなった。
 その40年前に書いた文章です。


 夢をもう一度 -夏をめざす中村高校野球部裏話―

 春の選抜高校野球大会が終わったあとの週刊誌は「ノンノ」「平凡パンチ」から「サンデー毎日」にいたるまで“さわやか旋風”“負けて悔いなし二十四の瞳”などと準優勝中村高校ナインを紹介した。敗者は美しいとはいうが、優勝した箕島高校の影が薄れてしまった。
 ブームとはおそろしい。きのうまで四国の田舎方言まるだしの高校生が“第二のサッシー”と言われたり、女子高校生ファンの人並みにもみくちゃにされたりするのだから。
ともあれ、あらためて中村高校の健闘をたたえたい。特に、準々決勝で優勝候補の筆頭、強打の天理高校から十三奪三振した山沖投手の快投は圧巻であった。
 中村市といえば高知県の西南に位置する人口三万四千人の小さな市であるが、これまで四国外では知る人のほうがめずらしかった。とりたてて言うべき産業もない貧しい農村である。わずかに国鉄土讃線の終着駅、足摺岬観光の出発点として知られていたにすぎない。
 私はこの中村に生まれたが、地元には大文字山があり、毎年お盆には送り火が焚かれる。また、鴨川、東山という地名もあり、市街地も碁盤の目状に整然と画されているのは、古く十五世紀に応仁の乱を逃れて落ちのびてきた京都の公家一条教房が京風に町を造った事実に由来している。
 とは言っても、やっと七年前に汽車が着くまでは、後進県高知県の中でもそのまた僻地で「陸の孤島」とまで蔑称されていた中村がわずか一日にして有名になったのだからおもしろい。これも全国津々浦々まで行き渡ったマスコミ文化の功罪か。
 地元では市長や県知事が何十億円の金をつぎ込んでも売り出せなかった中村の名をたった十二人の高校生によって、かんたんかつ完璧に売り尽くしてしまったとの風刺も聞かれたという。
 そもそも中高(地元ではこう呼ぶ)が甲子園に行くことなど夢のまた夢であった。県内では「三強」と言われる高知、高知商、土佐の三校が順番に甲子園に行き、全国的にも高知野球の強さは定評があった。この「三強」は県内各地から優秀な選手をスカウトしてきてチームを編成するのだから、郡部校はいわば二軍選手ばかり。「三強」というハイカラチームに対して、もともと中高は田舎チームであり、これまで歯がたたなかった。
 ところが今年はどうか。ジャンボ山沖を中心にアレヨ、アレヨという間に「ノンノ」に登場する始末。世の中、これほど急に運が開けることもめずらしかろう。中村では有史以来の出来事として町中大混乱したのも無理はない。私もその一人だった。
 去年ごろから「中高にノーコンじゃけんど出口(いでぐち)の子でごつう早い玉を投げるピッチャーがおる」とは私も妹から聞いていた。私の妹は中高で山沖君などと同級生である。甲子園で四番を打ち、海星高校戦でホームランを打った植木君は私と同じ小学校、中学校出身だ。幼い頃一緒に遊んでやったものである。
 このたった十二人の中高野球部は、昨年秋の四国大会で丸亀商業には敗れたものの準優勝し、センバツの切符を手にし、果ては“さわやか旋風”になるのである。
 学校ではセンバツ出場決定と同時に、応援部、ブラスバンド部を即席に結成した。在校生、卒業生の家には寄付要請がひんぱんに来た。弟も卒業生のため、私の実家にも来た。後援会は二千万円の金をやっと集めた。
 地元では、運良く甲子園に行くことにはなったが、一回戦で負けてもいいから中村の恥を全国にさらさぬよう、せめてみっともない負け方だけはしてくれるなとの願いであった。
 学校では「ハナ肇」のあだ名がついている市川監督は、テレビで見ていても一回戦の戸畑高校戦のはじめなどは緊張して泣きそうな顔をしていたのに、勝利後のインタビューでは方言(幡多弁と言う)まるだしで得々としゃべっているのだから笑止であった。
 山沖投手はピッチャーマウンドで上着をお尻からたらしたり、決勝戦では箕島打線に連打されてもニコニコ笑い、これをマスコミはさわやかと評したが、実際の彼は物事にあまり意を用いないボケッとしたタイプだそうだ。
十二人は甲子園で女性ファンに囲まれたが、高校ではあまり女生徒から相手にされず、ガールフレンドがいるのはライトで九番を打った吉良君だけであるとは私の妹の言である。もっとも私の妹も男子生徒から相手にされないようであるが、これは私の妹だから致しかたがない。妹も甲子園にずっと応援に行った。
 センバツ大会終了後しばらくの間は、中村経由で足摺岬に向かう観光バスがわざわざ中高前を迂回し、ガイドさんが「これがあの二十四の瞳の中村高校でゴザイマス」と紹介しては通過したという。この春は、中村市民みんなの頭のピントがずれてしまって、元に戻すのにかなりの時間を要したようであった。
 さて、次は夏の甲子園が近づき、夢をもう一度である。私も五月の連休に帰省した時、中高野球部の練習風景を見に行ったが、部員もいっきょに四十人近くになっていた。あの田舎チームがハイカラチームに見えたのは不思議である。私もマスコミに頭をマヒさせられたのかと思ったが、センバツ後、春の四国大会では見事優勝したのだから、センバツの活躍が決してフロックではなかったことが証明された訳だ。
 しかし、春夏連続の甲子園出場はむずかしいと言われる。夏は「三強」もたやすく勝たせてはくれないだろうし、ハイレベルの徳島県勢の壁もある。
 中高は私の第二の母校である。できることならば、再度甲子園で活躍する山沖君たちの姿を見たいものである。
ガンバレ中高!!
                        (昭和五十二年六月)
(追記)
勝負の世界は皮肉である。七月十六日開幕の高知県予選一回戦で、中高はいきなり「三強」の高知商と対戦し四-五で惜敗した。シード制をとらない高知大会では有力校同士が初戦でたたかうケースが多い。
試合後、市川監督は「選手には野球だけが人生じゃないことを教えてやりますよ、アユ釣りにでも行って」と語ったという。これが普通の高校生の姿なのだ。またいつの日かの捲土重来に期待しよう。
                    (七月十七日、朝日新聞を見つつ)


農林中央金庫従業員組合大分支部『河鱸(どんこ)』創刊号(昭和五十二年十月)
田中全『わがふるさと中村』(2008年)に再録
                          

幸徳秋水墓前祭

 幸徳秋水を顕彰する会では、1月24日、恒例の幸徳秋水刑死106周年墓前祭を開いた。

毎年この日は寒い日になる。去年は大雪になった。今年も前日は、今季はじめての本格的な雪が降ったので心配したが、当日は寒くはあったが、雪は時々ちらつく程度でおさまってくれた。

今年も約70人参加。久保会長は、昨年、秋水の孫が刑死105年にして、はじめて墓参にみえたことは感動的であったと、あいさつ。続いて「追悼の言葉」を述べたあと、幸徳家縁者から順次、献花をしてもらった。

愛媛からは、坂本清馬と生前交流があったという宇都宮さん(86歳)も見えられた。

 DSC_1966.jpg   DSC_1961.jpg   DSC_1991.jpg

スピーチは、縁者の稲村知さん(姫路)、木戸秀雄さん(地元、木戸明ひ孫)、高知市自由民権友の会の岡村正弘さん、の3人。それぞれ、秋水への思いを語ってもらった。

安保法により日本が戦争できる国になり、さらに思想弾圧につながる共謀罪が国会に提出される中、秋水が唱えた非戦平和を実現する努力を誓い合った。

今年は直前に、秋水墓を含む幸徳家および、坂本清馬、師岡千代子など、まわりの墓すべてを水洗いしたので、見違えるようにきれいになった。

また、清馬墓、木戸明墓にも、説明板をはじめて設置した。年間を通して、全国からみえる多くの方々にも、気持ちよく、わかりやすく墓参をしてもらえることだろう。

墓前祭終了後は、会場を市立文化センター会議室に移し、別役佳代さん(土佐史談会会員、元県立文学館学芸課長)による記念講演会「田岡嶺雲と幸徳秋水」を開いた。

 DSC_1997-1.jpg   DSC_1994.jpg

田岡嶺雲は、秋水と同年代で同じ高知県出身(高知市)、一時は万朝報同僚であり、生涯の「畏友」であったが、秋水に比べると忘れられた存在になっている。秋水に近い思想をもっていたが、運動からは一線を画していた。

私自身、秋水との接点部分の嶺雲しかしらないが、嶺雲は思想家であり、文学者、俳人でもあり、奥行きが深いことを教えてもらった。恋愛においても、拙い秋水とは違い、情熱的であり、人間味を感じる。

それこそ雲のようだった嶺雲の輪郭がはっきりしてきたので、代表作「数奇伝」を読んでみようと思う。

 2017秋水墓前祭 2  2017秋水墓前祭 1







 

清馬と秋水

 1月15日は、坂本清馬の42回目の命日であった。この日にあわせ、幸徳秋水を顕彰する会では、正福寺にある清馬墓に説明板を設置した。

 20170120162349323.jpg

 坂本清馬(1885~1975)

「 父は中村の人で室戸生まれ。海南中、高知二中を中退し上京。秋水の思想に共鳴し、たびたび同居。大逆事件に連座し、1911年死刑判決を受けるが、無期懲役に減刑。1934年出獄。戦後は中村に住み、事件最後の生き残りとして、1961年森近運平妹栄子とともに再審請求の訴を起こすも棄却された。  幸徳秋水を顕彰する会 」

 清馬墓は幸徳秋水墓と同じ並びにあり、向かって右に5つ目。2人は同じ大逆事件の犠牲者でありながら、秋水には大きな説明板が立っているが、清馬のものはこれまでなかった。このため、全国から秋水の墓を訪れる人は多いが、すぐそばに清馬の墓があることを知る人は少なかった。

 清馬が再審請求裁判を起こしたことで、事件が風化し闇に葬られてしまうのを防いだ。このことの意義は極めて大きいにもかかわらず、地元でも清馬は秋水の陰に隠れていた。

2年前、清馬没後40年にあわせて、その年の秋水墓前祭は初めて清馬との合同祭とした。今後も5年に一度を目安に合同祭にすることにしている。

今回は、墓案内板だけでなく、墓地入口に建てている誘導板2枚も二人の連名に変えた。やっと師の秋水と対等の扱いになったことで、清馬はどう思っているだろうか。清馬は秋水の門人と自称していただけに、敷居が高いと思っているかもしれない。

しかし、そんなことはない。あなたは、秋水と同等の扱いを受けて当然である、胸を張って師と並んでほしいと、言ってやりたい。

 20170120162348b96.jpg

さて、いよいよ恒例の秋水墓前祭が近づいた。今年で刑死106年になる。

1月19日には、秋水および一族、祖先の墓石を高圧洗浄機で水洗いした。長年積もった苔などの汚れがきれいにとれた。これだけの墓掃除はおそらく初めてではないだろうか。

 20170120162350f17.jpg     201701201623431fc.jpg

今回は、秋水墓手前の山際に並んでいる江戸時代の俵屋関係の墓も洗浄した。幸徳家は江戸中期、大阪からやってきて、中村に以前からあった俵屋(薬種商)を継ぎ、代々俵屋嘉平次を名乗った。秋水は5代目嘉平次になる。ほとんど知られていないが、この墓石の一群も秋水の祖先である。

 20170120162448c6a.jpg


墓前祭は1月24日午後0時半から正福寺で。
引き続き、午後2時から記念講演会「田岡嶺雲と幸徳秋水」(講師 別役佳代 土佐史談話会会員)も市立文化センター大会議室で開かれる。
多くの方のご参加をお待ちしています。

 20170120162300f1e.jpg     20170120164619e41.jpg




 

兼松林檎郎(高知新聞投稿)

高知新聞「声ひろば」投稿(2017.1.15)

 兼松林檎郎

 昭和南海地震で全国最多の犠牲者を出した中村では、南海地震を語る場合、先輩たちから必ずこの人の名前が出る。
 兼松林檎郎は戦後間もないころの青年団運動のリーダーであった。昭和20年8月の敗戦の翌9月、早くも中村町青年団を結成し、団長に。21年、幡多郡連合青年団、22年、高知県連合青年団へと組織を広げ、それぞれ団長に就いた。
 彼が常に訴えたのは「団結すれば立ち、分裂すれば倒れる」。
 その活動のシンボルが地震被災からの復旧支援活動であった。震災直後、道路寸断の中、高知市から海路下田に着いた救援物資は地元青年団が人海戦術で町中に運び込んだ。幡多郡下青年団もこぞって中村に救援隊を派遣した。
 被災した子どもたちのために、自分たちの手で保育園を立ち上げ、無償で自主運営。いまの市立愛育園の前身だ。
 さらに、高校に行けない勤労青年のために「幡多郡連合青年団立幡多公民高等学院」をつくり、合宿所も併設した。
 青年たちの力が希望の光となり、瞬く間に中村の町は復興した。
 しかし、戦時中から結核にかかっていた彼の命は、昭和29年、36歳で燃え尽きた。だから、いまでも伝説的に語り継がれるのであろう。
 いつの時代も青年が動けば社会が動く。いまの青年にも奮起を期待したい。

 201612262008405c1.jpg     DSC_1851-2.jpg
           
   兼松林檎郎墓






安岡良亮 一族の墓(4)

 墓の説明は以上で終わり、以下は、まとめとしたい。

私がいま安岡良亮について調べているのは、地元が生んだこの人物を広く知ってほしいためである。特に地元の人たちには。そのためには、自分自身がよく知らなければならない。

要するに、安岡良亮はどんな人物だったのか。

安岡良亮は、文政8年(1825)~明治9年(1876)、日本近代の幕開けとなる幕末維新期51年を生き、その後の時代の行方を決める象徴的な事件にかかわり、また人物に影響を与えた。

事件とは二つ。
① 倒幕運動に参加し、旧勢力のシンボルでもある新選組近藤勇を斬首に処した(命じた)こと。
② 熊本神風連の乱では、逆に旧勢力(不平士族)により斬り殺されたこと。

近藤斬首については説明はいらないと思う。神風連の乱については、明治9年、良亮はこの事件の犠牲になったが、神風連は制圧された。

乱後、政府は熊本に谷干城を派遣し、防備を強化した。もし、地元勢力である神風連が温存されていたら、翌年、西南戦争において、西郷軍に合流したであろうし、熊本城(鎮台)は落城していたであろう。そうなれば、全国の反政府勢力が勢いを増し、明治政府は瓦解していたであろう。

谷干城は同じ土佐人で近藤勇斬首をともに命じた盟友であった。谷は英雄となり、帝国憲法発布後の初代伊藤博文内閣で農商大臣、のち貴族院議員になった。しかし、良亮はその捨て石になった。

次に、影響を与えた人物とは、幸徳秋水と尾﨑咢堂(行雄)である。

秋水の母は良亮の従弟(いとこ)であったが、秋水が明治4年に生まれた時は、良亮は東京に出ていたので、二人は直接交わることはなかった。

しかし、先に書いたように、良亮が死んだことにより、家族は中村に帰ってきた。長男雄吉だけは、慶應義塾に入っていたので、東京に残った。雄吉は弟秀夫たちに、田舎にはない、珍しい絵本や雑誌を送って来た。「絵入自由新聞」「団々珍聞」などである。

秋水は安岡の家に入りびたりだったので、これらの本を読んで、触発された。秋水が中心になって、こども新聞をつくった。また、「自由」とか「民権」とか書いたのぼりつくり、町を歩いたりした。こうしたことは、秀夫の回想記「雲のかげ」に書いてある。

仮に、良亮が生きていれば、身内を引き立てていたであろうから、秋水は違った道を歩んだのではないか。

良亮の死が、のちの社会主義者秋水を生んだといえる。

一方、「憲政の神様」尾崎咢堂は、良亮から直接の薫陶を受けている。

戊辰戦争において、土佐の東征軍、板垣退助率いる迅衝隊は甲府から江戸へと進軍するさい、地元からも兵士を募った。その中に八王子近くで合流した尾﨑行正(咢堂の父)がいた。

良亮隊(半隊長)に属した行正は、よほど良亮に魅かれたのであろう、維新後もずっと熊本まで、影のように従った。良亮を支える公務についたが、家僕同然であった。

安政6年(1859)生まれの咢堂が、父に連れられ、明治元年、東京に出たさいは、駿河台にあった良亮の屋敷に落ち着いた。咢堂は良亮から七書の講義などを受けている。以降、家族ぐるみで、高崎、伊勢、熊本にも従っている。

ただし、咢堂は途中、慶應義塾に入ったことから熊本にはついて行っていないが、学校休みの時、熊本に家族を訪ねたことを、「咢堂自伝」に書いている。

良亮死後も尾﨑一家(妻、弟2人)は中村についてきて、安岡家にしばらく同居し(戸籍では同居人)、明治14年、以前いた伊勢に移っている。咢堂は、明治23年から昭和27年まで、衆議院議員25回当選の最長記録をもっているが、その選挙区が三重県だったのは、こんな事情によるものである。

良亮の長男雄吉は咢堂の5歳上であり、先に慶應義塾に入っていた。おそらく、咢堂に慶應をすすめたのは良亮であろうと思われる。


安岡良亮は、勤王倒幕に参加し、近藤勇、神風連との運命的めぐり合わせなどをみると、こわもての、強者(つわもの)のようなイメージがある。

確かにその通りであろうが、それだけではない。人心を掌握する能力にもたけていた。

「咢堂自伝」によれば、良亮は明治政府に入り、最初は「弾正台大忠から集議員判官、民部少丞」などについていたが、大久保利通の命で、高崎県、度會(三重)県、白川(熊本)県のトップとして、派遣される。いずれも難治(治めるのがむずかしい)の県とされていたところであり、良亮の力量を買っての指名であったものと思われる。

高崎、度會では実績をあげ、熊本でも硬軟両様を駆使し、不平士族との融和を進めていたところであった。

しかし、最後は命を落とす。陽が当たる中央官僚に比べ、現場まわりの地方行政官の悲哀、無念を感じる。

良亮は、家庭でも家族想いの父であった。次女英(ふさ)が晩年「八拾年の思出」に書いている。英が子供のころ、母の具合が悪いときは、父はつきっきりで看病し、やさしく食事も与えていた。また、次男秀夫も、高崎時代、家族で伊香保温泉に行った思い出を、先の手記に書いている。

安岡良亮は、そのような奥深い人物であった。

繰り返しになるが、その一族も、多士済々であった。

だから、多くの人に知ってほしい。

(終)

安岡良亮 一族の墓(3)

 間崎、羽生山、2カ所の墓を訪ねたあとに、間崎の別のところにも安岡の名前が刻まれた墓石があるという情報が入ってきた。場所は間崎(地区)にある間崎家の墓所のそばで、安岡と間崎の名前が混在しているという。

間崎家といえば、その名前の如く、一條家時代から続く間崎(地区)の名門で、江戸期には大庄屋をつとめてきた家である。いま全国に散らばっている間崎姓のルーツは、ここの間崎家であると言われている。(初崎と実崎の間にあるから間崎という地名になった。)

幡多郡でも、下田、江ノ村、津野川、伊与喜などにも分家している。山内容堂に切腹を命じられた、かの土佐勤王党間崎滄浪は江ノ村の間崎出である。

すぐに、いまもある間崎家本家を訪ね、聞いてみると、確かにその通りだが、なぜ混在しているのか、うちで祀っていいものかわからないので、放置しているという。

ガソリンスタンド脇を入った、その場所に案内してもらうと、草、木、ツルに隠れていた。鎌で刈り払うと、2列に並んだ墓石の一群が出てきた。

数えると、なんと22基。内訳は、安岡7、間崎5、野波1、東1、識別不能8(戒名だけ)であった。

DSC_1652.jpg

それぞれ写真に撮り持ち帰った。安岡家系図、間崎家系図(ともに上岡正五郎文書)に目を通して、名前をチェックしてみると、間崎は特定できなかったが、安岡の名前の主はすべてわかった。

一番古い名前は、傳七真儀であった。傳七は、かの「忠臣 久左衛門久儀」の次男である。

 DSC_1784.jpg

記録によれば、兄貞助良久が本家を継いだのに対し、傳七は間崎一族の家(津蔵渕庄屋=隣地区)にいったん養子に出た。しかし、橋上村(現宿毛市)庄屋に転じたさい、長男次平眞武に家督を譲り、本人は安岡姓に戻って橋上に移った。

しかし、隠居後、墓はもとの間崎(地区)につくった。橋上村庄屋職は次男久次衛門に継がせた。「宿毛市史」の庄屋一覧にその子孫たちの名前が載っている。

長男次平眞武以降の墓は、この間崎の墓の中にあるが、次男久次衛門以降の墓はないので、橋上村にあるものと思われる。宿毛歴史館に、場所を問い合わせている。

 DSC_1716.jpg

疑問なのは、橋上村の次男久次衛門以降が安岡姓なのはわかるが、長男次平眞武以降は間崎姓であるはずなにの、墓名は安岡になっていることである。

間崎本家の墓群のそばに、安岡と間崎が混在した墓石があるのは、そんな複雑な事情のためではないか。現に、傳七、次平に続く名前は、間崎家系図の中にも載っている。(両家の系図に重複している)

 DSC_1777.jpg

ところで、橋上村安岡家の流れ(祖=傳七真儀)に、安岡正篤(まさひろ、明治~昭和)がいる。著名な思想家、陽明学者であり、太平洋戦争終戦の天皇詔勅に筆を加えたことは、知る人ぞ知るところであろう。

安岡正篤は大阪の堀田家の出であるが、一高時代に、当時東京にいた安岡盛治の養子になり、東大帝大在学中、盛治の一人娘婦美と結婚している。

 DSC_1803-1.jpg

盛治も養子(高知大西家より、妻光恵)であり、その父(養父)は安岡良純であった。良純は天保年間、橋上村生まれで、明治になってから高知県官吏を経て、東京に出て税務官吏を務めた。

東京では安岡雄吉(良亮長男)と親族交流があったようで、正篤の一高、東大時代の身元保証人には、雄吉がなっていた。

一部に、正篤は安岡雄吉家の養子であったと伝わっているが、これは誤りである。

安岡正篤と安岡良亮のそれぞれの流れを遡れば、正篤の8代前と良亮の6代前が「忠臣 久左衛門良儀」で一致する。そこで枝分れし、良亮、雄吉が中村本家筋、正篤が橋上分家筋ということになる。正篤の墓(安岡家墓)は東京染井霊園にある。

なお、「やさしい論語教室」などで、よくテレビ、ラジオなどに登場する安岡定子は正篤の孫娘である。

安岡良亮 一族の墓(2)

 羽生山の安岡家墓は、先に書いた安岡家子孫女性(良亮弟良哲のひ孫)に案内してもらった。羽生山は中村の町中にあり、市街地の目の前である。

 DSC_1481.jpg

安岡(良哲)家を継ぐ直系男子(墓地管理者)は県外におられるが、永く帰ってこられていないということで、墓は草木に覆われていた。

持ってきた鎌で刈り払うと、中央に納骨堂と、そのまわりに並べられた古い墓石が現れた。納骨堂は昭和52年安岡隆一建立とあり、扉を開けて霊誌板を見せてもらった。

 DSC_1501.jpg

家族の名前も含まれているが、当主を古い順に並べると、隼太(別名周蔵、弘化4年=1847没)、良輝(故五郎、明治5年没)、良哲(明治30年没)、友衛(大正10年没)、隆一(昭和62年没)、亮(平成19年没)となっていた。隼太~友衛は、写真の通り、隅に墓石も並べられていた。

 DSC_1490.jpg     DSC_1489.jpg

安岡家系図によれば、隼太は源蔵の子。源蔵(寛政7年没)の墓石は間崎にあるので、安岡家は隼太時代に中村に戻って来たものと思われる。

子孫女性が言うには、母(友衛娘)から聞いた話によれば、間崎にいたころ、四国遍路に一夜の宿を貸したさい、お礼にということで、「虎胆丸」(体毒下し)なる薬の作り方を教えてくれた。以降、その薬づくりを家業として、中村に戻って来た。確かに、先に紹介した「安岡家覚書」にも、貞助のころの話として、そんな記述がある。中村では名の通った薬になったという。

安岡家は間崎時代、農業を営みながらも「郷士」として認められていた。中村に戻ってきた場所は土居=武家屋敷の一角、いま旧邸跡碑が建っているところ(丸の内)、大神宮の南側と思われるが、良亮以降の良哲、友衛の家は大神宮北の郡代官所(現刑務所)隣であったというから、当時は、大神宮をはさんで、本家、分家に分かれていたようである。

 DSC_0255.jpg

「中村市史」によれば、隼太の子良輝(故五郎)は、弓術の達人であり、10才下の樋口真吉に目をかけ、影響を与えた。 

良輝の子が良亮であった。良亮も九州に修行、遊学をして文武を極め、「漢学塾帰子周堂」を開き、多くの門弟を集めていた。

良亮は、樋口真吉らとともに倒幕運動に参加。通常は、家の長男は地元に残るが、弟の良哲は眼が悪かったため、兄のほうが東征に参加した(迅衝隊半隊長)。東京板橋では、千葉流山で捕縛された新選組近藤勇に斬首の刑を課した。そのまま会津に転戦している。

凱旋帰国後は、明治新政府に仕えるため、家族を引き連れ再び上京。今の群馬県、三重県を経て、明治9年、初代熊本県令(知事)の時、不平士族神風連の乱で斬られ、命を落とした。秋水はのちに、「俺の親戚の出世頭は良亮伯父だった」、と無念を語っている。

遺された妻千賀は、慶應義塾に入っていた長男の雄吉だけを東京に残し、秀夫ら下の子供たちをつれて中村に帰ってきた。その家に親戚の子どもたちも集まってきて、にぎやかに遊んだ。その中に幸徳秋水がいたことは有名な話である。秋水は秀夫の1歳上であった。

雄吉は2度洋行。後藤象二郎による大同団結運動に加わり、入獄したこともあるが、その後代議士に。秀夫(慶応義塾出)は時事新報主筆をし、中国関係の本なども出したが、兄弟とも秋水とは思想を異にしていた。しかし、秀夫は秋水処刑後の引き取りに立ち会っている。秋水のことを書いた回想録「雲のかげ」もある。2人とも中村に帰ってくることはなかった。

中村の安岡家を継いだ良哲は、維新後は地元殖産事業として、自宅前畑で桑の栽培実験を繰り返すなど、養蚕業の普及につとめた。「中村市史」には、幡多郡の養蚕業の草分けとして詳しく紹介されている。良哲の妻は、小野家出で秋水母多治の妹であった。

 DSC_1776-1.jpg

良哲の息子友衛(秋水従弟)は医者になった。秋水母多治の最期を診たのは友衛。秋水が最初の妻(西村ルイ)を離縁するさい、妻実家の福島郡山に送っていったのも、東京で修学時の友衛であった。

友衛の息子隆一、孫亮はともに中村を離れていたが、没後は安岡家納骨堂の中に帰って来ている。

良亮妻千賀と長男雄吉の墓は神奈川県藤沢市にある。

なお、良亮の娘英(ふさ)は、東京で夫(小野道一、元高知県会議長)を亡くしたあと、中村に帰ってきて、明治38年、中村で最初の幼稚園設立に貢献(園長)したことが、「中村市史」に書かれている。墓は市内太平寺にあったが、いまは撤去されている。
プロフィール

田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR