中村町人文化と幸徳秋水(上)

幸徳秋水(伝次郎)は明治四年、両親にとって六番目の末っ子として生まれた。

父幸徳篤明は四代俵屋嘉平治を襲名する商家であり、母多治は医師小野雲了(亮輔)の娘。小野家は代々山路村庄屋をつとめた士族格の家柄で、雲了は小野家三男のため中村に出て医師となっていた。

幕末とはいえ士農工商の身分制度が厳然たる江戸封建時代、最下級商人のもとに最上級士族の娘が嫁ぐことは異例なことであった。

これには中村という町の歴史的背景がある。

一條家、長宗我部に続き、関ケ原合戦のあと、中村を支配したのは山内康豊。土佐藩初代山内一豊は弟康豊に中村を分け与え、独立した中村藩(二万石、のち三万石)とした。

しかし、元禄二年(一六八九)、中村藩五代直久(大膳)が幕府若年寄に抜擢されたにもかかわらず、これを辞退したことを口実に、将軍綱吉から取り潰された(幕府直轄後土佐藩に併合)。

禄を失った家臣は散り散りになり、武家屋敷は残らず取り壊された。城に代って奉行所が置かれ、以後は上級武士二名が高知から交代で来るのみで、中村には藩直属武士がいなくなり、さらに洪水、火事などの災害も加わり、町は荒廃した。

こうした中村を支え、復興したのが町人であった。宇和屋、俵屋、吸田屋などが町老(年寄)になり、商人中心の自治的運営がなされた。藩もこれを認め、中村の町はいわば特別行政区的存在になった。

中村がいまでも「おまち」と呼ばれ、格の高い響きをもつのは、このためである。(「中村市史」)

商人の間では、和歌、俳諧、絵画等が流行した。こんな雰囲気の中、宇和屋から学者遠近鶴鳴が生まれた。

鶴鳴は商いで京阪に出た際、篠崎小竹(大阪)から朱子学、岩垣松苗(京都)から国学を学び、さらに一條家学問と土佐南学の流れも受け継ぎ、私塾鶴鳴塾を開いた。

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 遠近鶴鳴墓

樋口真吉(足軽)、安岡良亮(郷士)、木戸明(吸田屋、のち地下浪人に)などはここで学んだ。町人学者のもとに士族の子弟が通ったのである。

秋水の父篤明も俳諧を趣味とする文人であった。商売、文化両面から幸徳家(俵屋)は一目置かれる存在であった。

小野雲了は格式ばかりうるさく貧乏な士族の家より、生活が楽な商家のほうがいいかもしれないとの配慮もあって、長女多治を幸徳家に嫁にやった。

そんな決断をした雲了ではあるが、多治の妹嘉弥子はやはり自分の姉菊が嫁いでいた郷士安岡家良輝の二男良哲(良亮弟)と縁組させた。

また、小野家には男子がいなかったことから、蕨岡の庄屋桑原家の二男道一と養子縁組し、その嫁には安岡良亮の二女英(ふさ)を迎えた。

英の姉芳(よし)は道一の兄戒平に嫁いでいたので、兄弟と姉妹同士が一緒になったことになる。

さらに、安岡家は木戸家とも姻戚関係にあった。(良亮と木戸明は従兄弟) (続く)


二〇一八年一月二十四日、幸徳秋水刑死一〇七年墓前祭記念講演会要旨
当日の演題は「中村町民文化と幸徳秋水」
「秋水通信」24号所収





満蒙開拓青少年義勇軍(3)

加藤完治は満蒙開拓のイデオローグであり、私にとっては満蒙開拓そのものであった。

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満州に渡った開拓民は最終的に約27万人に及んだ。日本陸軍の最強部隊と言われ、彼らを守るはずであった関東軍はすでに多くが南方に転用され、敗戦時、残っていた部隊もいち早く逃げた。開拓民を置き去りにして。

開拓民は引き上げの混乱の中で約8万人が命を落とした。満州にいた日本人の中では開拓団の犠牲者が圧倒的に多かった。

なぜ、そんなに開拓団を満州に送りこんだのか。加藤完治はその最高責任者の一人である。私はそう思ってきた。

今回、資料館の展示を見て、そのことは真実であることを確認できた。完治が7500人を前に訓話をする写真があった。訓練所は完治そのものであり、生徒はその家族、子どもたちであった。完治は戦後、戦争責任を問われ、公職追放になった。

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しかし、今回、四男弥進彦さんの話を聞き、また自宅で完治の遺品等を見る中で、一人の「人間」加藤完治にもふれることができた。

彼は終生「農業は金もうけではない」と言っていた。農こそすべての源。土を耕し、土とともに生きる。これが彼の思想の原点である。農本主義といわれた。資本主義に対する言葉だ。資本主義は金もうけ。

完治は東京帝大農科大学で那須皓と出会う。また、筧克彦教授の古神道の影響も受けた。天皇中心の忠君愛国、日本人は世界にまれな優れた民族。

農本主義の日本をつくるにも、日本には土地がない。農家の次、三男は農業をやろうにもできない。そんな窮状を訴えられた完治は、大陸に目を向ける。

満州には広大な原野がある。これに鍬を入れ、開墾する。日本の食糧問題の解決にもつながる。「五族協和」の「王道楽土」をつくろう。五族とは、日・満・鮮・漢・蒙。

この考えは、満州事変以前からのものであった。しかし、満州国ができ、その統治を進めていく中で、満蒙開拓の目的は変質していく。

当初、入植地は未開墾地に限定するとされていたが、次第に既墾農地を強権的に奪い取る(安く買い上げる)ようになる。

開拓団員募集も自主的任意のものから、分村方式が採用されてからは、強制的に割り当てられるようになる。昭和17年以降の、高知県江川崎村、十川村などはその典型である。十川村では、いやがる村民から選ぶために、くじ引きまで行われた。(本ブログ2015.8.6など)

青少年義勇軍にしても、教師が子どもたちに「行け 満州へ」と動員をかけるようになる。

開拓団や義勇軍は、ソ連、蒙古との国境防衛、満州国統治安定化のための基本政策(国策)として利用されるようになる。

完治は一農民であり、純粋な思想家、教育者であった。軍事作戦等にはかかわっていない。

実際、完治は、関東軍の作戦変更(南方転用)を知らされていなかった。だから、日本が本当に負けるとは、最後まで思っていなかった。8月15日の狼狽ぶりにそれが表れている。

弥進彦さんは「満蒙開拓は侵略的植民政策ではなかった」とはっきりと言う。それが完治の思いであったのであろう。著書「志を継いで~私の愛農人生~」もいただいた。

今回、牧久著「満蒙開拓、夢はるかなり―加藤完治と東宮鐵男―」という本も3年前出ていることを教えられ、読んだ。(東宮鐵男は、もう一人の「満蒙開拓の父」と言われた軍人)

これまで私が読んだ満州開拓関係の本と違い、加藤完治の生きざまにスポットを当てたもので、興味深かった。「侵略者」、「聖人」でもない、「人間」完治を客観的に描いていた。

だが、これを読んでも明らかなことは、完治の思想の中心に天皇がいたこと。「優秀な日本民族」が「大和魂」をもって土を耕せば「王道楽土」ができるという発想。「大和魂」という言葉をさかんに使っている。

耕す土地はどこでもいい。朝鮮や満州は、日本が戦争により手に入れた土地であるという視点はない。未開の原野があるから、それを耕してやるというような考え方である。

そもそも「満州」(中国では「東北部」)そのものが日本がつくった言葉であるのに、日本人がハワイやアメリカ西海岸に渡っていろんな仕事に就く中で、農業もやるということと、基本においては変わらない発想。

そんな考え方が軍事戦略と結びつけば、他国侵略のための大義名分、スローガンに利用される。

日本敗戦直後、完治は、必死で天皇の詔勅を筆で書き写した。完治は天皇にすがるしかなかった。

「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」

気を取り直した完治は、福島県白河の開拓地に入る。
生涯鍬を振るい、土とともに生きた。

私は帰りに、日本農業実践学園本部前に足を運んだ。庭には、鍬で耕す完治の銅像が建てられていた。その後ろには弥栄神社の祠が。

やはり、加藤完治は満蒙開拓の象徴である。(終り)

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(参考)
小学館刊行中の「電子版 宮尾登美子全集」第5巻「朱夏/仁淀川」付録に、「高知の満州開拓団」について、私と秋田和さん(大土佐満州開拓団引き揚げ者)の対談が収録されています。
https://www.shogakukan.co.jp/digital/label/1000068


満蒙開拓青少年義勇軍(2)

満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の所長は加藤完治であった。加藤は国に対して満蒙開拓をいち早く提言し、「満蒙開拓の父」と言われた人物である。

資料館の係の女性から、近くに加藤完治の息子さんが健在だという話をきいた。まさかと思った。自宅には私設の資料館をつくっているという。

ぜひにと思い、連絡をとってもらうと、見せてもらえるというので、訪ねた。

自宅は、日本農業実践学園の農園の一角の林の中にあった。加藤弥進彦さんといって、完治の四男にあたるという。大正10年生まれの96歳とご高齢で、足が少しご不自由そうだが、かくしゃくとしておられた。

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ひげをたくわえ、オーラをただよわせたお顔は、完治そっくり。学園の名誉校長さんだった。

私の農林中央金庫時代の同僚に加藤完治の孫がいたので、その話をすると、それは自分の息子だとのことで、お互いびっくり、奥様ともども歓迎を受けた。

建物は完治の教え子たちが書斎として寄贈したものだそうだが、いまは自宅兼資料室として使われていた。

玄関には完治が昭和42年、83歳で没する寸前まで使っていたという大きな鍬が置いてあった。持つとズシリと重い。農本主義者の象徴だ。

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畳の部屋三つに完治の資料がびっしり展示されていた。生い立ち(明治17年、東京)からの年譜、写真、書、机など。同志であった石原莞爾将軍(陸軍)、石黒忠篤(農林大臣)などの書、手紙なども。石黒は農林中央金庫の前身産業組合中央金庫の理事長も務めている。

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完治は満蒙開拓のカリスマ的存在であった。

私が最も知りたかったのは、悲惨な結末に終わった満蒙開拓を完治は敗戦時どうみていたのか、その姿である。

完治は呆然自失の状態であったという。

弥進彦さんは学徒出陣組(海軍)。高知で終戦を迎え(これも驚いた)、家に戻ると、父は畳に頭をすりつけるようにして、天皇の詔勅を筆で書き写していたという。「帰ったか」とだけ言って、何枚も何枚も。必死の形相で。

昭和2年、完治は国の全面支援をえて、農業青年育成教育を目的とした日本国民高等学校を茨城県友部に設立。同10年、ここ内原に移転。いまの日本農業実践学園の前身だ。

昭和12年、自らが提言した満蒙開拓青少年義勇軍構想が国に認められ、同訓練所を学校に隣接してつくる。以後は、訓練所のほうが主体になる。満蒙開拓に邁進する。(続く)

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満蒙開拓青少年義勇軍(1)

水戸市周辺には前から一度行きたいと思っていたところがあった。内原である。

内原は2005年、水戸市と合併したが、それまでは東茨城郡内原町であった。内原と言えば満蒙開拓、満蒙開拓といえば内原と言われるほどの「満蒙開拓の聖地」である。

昭和6年、満州事変、7年、満州国誕生。

満州試験移民(武装移民)を経て11年から、「20カ年100万戸移民計画」に基づく、国策による本格的な移民事業(農業移民)が始まる。

内原には、満州に向かう開拓者たちの幹部訓練所など各種訓練所がつくられた。その中の一つで、最も大規模だったのが満蒙開拓青少年義勇軍訓練所。

昭和13年から、一般の開拓団とは別に、15歳から19歳までの青少年、主に農家の次、三男を対象にした義勇軍を編成することになり、ここで3カ月訓練を行った。さらに満州で3年間、現地訓練を受けたあと、一般開拓団に合流するなど、実際の開拓作業に入ったのである。

義勇軍と勇ましい名前ではあるが、軍隊ではない。全国から募集(志願)され、終戦までの間に、8万6,530人が満州に送られた(高知県からは1331人)。

内原駅は水戸駅から2つ東京寄り。駅からタクシーですぐのところに資料館があった。

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正式名称は「水戸市内原郷土史義勇軍資料館」。図書館と併設されていた。入場無料。地元郷土史全般の展示の中のメインが義勇軍関係であった。

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満州国は日本の傀儡国家であり、満蒙開拓は、最初の提唱者や個々の開拓民の意向とは別に、満州国統治(支配)のために利用された政策(国策)であった。その歴史評価は定まっているといえる。

しかし、展示はそんな評価には触れず、かといって肯定礼賛するのでもなく、当時のありのままの姿を再現したものであった。それだけに、生々しかった。スローガン、ポスター、作業着、写真・・・

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庭には、訓練所のシンボル日輪兵舎(宿舎)が再現されていた。中を覗くと、当時にスリップした。こんな円形の兵舎が300棟もつくられた。

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展示は、歴史的事実そのまま、これでいいと思う。これを見て、どう評価するかは見る者が判断することだ。

資料館は公民館隣に2003年つくられたものであるが、実際の訓練所はここから2キロほど離れた場所にあった。

当時の正門跡は桜に囲まれた公園のようになっていた。その中心に記念碑がそびえていた。

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訓練を終えた青少年たちは、ここから隊列を組んで、内原駅まで歩き、満州に向かった。ラッパと太鼓部隊を先頭に、意気揚々と。白い布で包んだ鍬を抱いて。鍬の戦士であった。

駅までの道は「渡満道路」と呼ばれた。(続く)

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水戸っぽ

茨城県水戸市には、東京にいたころ、二度行ったことがある。一度は、梅の時期に偕楽園へ。もう一度は、仕事で。しかし、どちらもサラリと、だった。

今回、久しぶりに行くことになり、しかも二泊もするので、本命の会議(脱原発をめざす首長会議)の前後に、少し歩いてみることにした。

水戸駅前のホテルの近くが、ぐるり水戸城跡であった。まず、藩校弘道館を覗いた。付近の道路には「水戸学の道」の看板があちこちに立っていた。

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「水戸学」といえば、徳川光圀(黄門様)と幕末の徳川斉彬。儒学思想の一つで、尊王攘夷運動の行動原理のベースにもなった。

水戸藩は徳川御三家の一つであり、格は高い。しかし、財政基盤は弱かった。質素、倹約につとめたようで、城と言っても派手な天守閣もない地味なものだった。

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本丸跡に、水戸一高があり、入ってみた。正面玄関の石に「堅忍力行」「至誠一貫」の校是が彫られていた。

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この高校の卒業生は、私の職場の同僚先輩に多くいた。

理屈っぽい、怒りっぽい、飽きっぽい、の「三ぽい」のを「水戸っぽ」と言うらしい。頑固真面目で譲らない。反面、人間味があり憎めない、そんな人たちが多かったように思う。

茨城弁は、高校野球で有名になった木内監督(取手二高、常総学園)の独特のイントネーションのあるじゃべり方がその典型だと、とその一人が、笑いながら教えてくれた。

また、一途さは、極端な行動をとらせる。大老井伊直弼を斬った桜田門外の変や昭和維新の血盟団事件のような「テロ」は、水戸っぽによるものだった、とも。

「土佐っぽ」という言葉もあったが、いまはほとんど使われない。死語に等しい。それにくらべて、「水戸っぽ」ははるかに激情的だ。だから、いまも生きている。

東海村元村長の村上達也さんも水戸一高出身だ。日本における原発発祥の地の村長でありながら、原発は地域の発展のためにはないほうがよかったと、堂々と言う。

また、東海村の人口は約3万8千人。四万十市(3万4千人)よりも多い。なぜ、「町」や「市」に変えなかったのかと聞くと、「ムラ」は人の集まり=共同体の基本単位であり、地方自治の原点なのだから、と言われた。

水戸っぽ 万歳。

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原発の地元とは

4月28日、脱原発をめざす首長会議総会が茨城県水戸市で開かれ、出席してきた。

今回水戸市が開催地に選ばれたのは、「原発の地元」を拡大する画期的な協定が茨城県で結ばれたから。

即ち、茨城県東海村にある日本原子力発電(原電)の東海第二原発をめぐり、東海村を含む30キロ圏内にある6市村(ほかに、日立市、常陸太田市、ひたちなか市、那珂市、水戸市)と茨城県は、3月29日、再稼働のさいの事前了解権を盛り込んだ新協定書を原電と結んだ。

これまでの原発再稼働においては、事前了解を得なければならない「地元」といえば「立地自治体」(市町村と県)に限定されてきた。例えば、愛媛県伊方原発では、伊方町と愛媛県が「同意」することによって再稼働した。(いままた差し止め休止中)

しかし、原発でいったん事故が起これば、「地元」だけでなく、その周辺の地域にも同じような被害が及ぶことは福島で経験済みである。「地元」を原発自治体に限定することの意味はなく、原発事故に境界線を設けることはできない。

これは誰もがわかっていることであるが、原子力ムラでは、原発稼働をしやすくしたいがために、机上の世界で「地元」をつくっているに過ぎない。

脱原発をめざす首長会議の世話人の一人である村上達也東海村前村長は、現職時代、周辺5市村に呼びかけ「原子力所在地域首長懇談会」(首長懇)を2012年につくった。村上さんの、この「置き土産」が今回の協定として結実したのである。

東海村は原発立地自治体として、特別交付税などで多くの「優遇」とともに「リスク」をかかえてきたが、この問題をわが村だけの問題とせず、周辺にも積極的に問題提起をした。

東海第二原発から30キロ圏内には約100万人が住んでいる。今回の協定は、こうした人たちも東海村と同じ「地元」として、認めさせたことになる。(さらに50キロ圏内には250万人)

日本原電は、昭和32年、電力9社によって設立された、いわば日本の原発の「パイオニア」であるが、その後、多くの原発は各電力会社単独でつくられてきた。

経営基盤が弱い特殊な立場であるがゆえに、今回の協定を受け容れざるをえなかったという面も指摘されている。また、協定の実際の運用には、いくつかの課題も残している。

しかし、これまで「非常識な常識」とされてきた「原発の地元」の概念に風穴をあけたことの意義は大きく、今後他の原発再稼働にも影響を与えることは必至であると思われる。

四万十市は 伊方原発から50キロ圏内。
四万十川の 愛媛県支流の源流域は30キロ圏内(西予市)。

四万十市も伊方原発の「地元」である。


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実崎水門の芝桜

芝桜シーズンが終わった。

実崎水門の芝桜は、今年一面に広がった。ダニエル(品種)は花びらが大きく、ピンクの色も濃いので、豪華に見える。

植え始めてから3年、芝桜は成長が早く、グングン広がっている。

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2014年初め、一人暮らしだった父が亡くなったので、その年の暮れに家に戻って来た。家の前には実崎水門がある。子どもころ、夏は水門から飛び込んだりして泳いだものだ。

その後、水門が改修されたさいは、自然石を積んだ工事が行われ、船着き場もつくられた。しかし、その後はほったらかしで草木がボウボウ。せっかく美観にも配慮してつくったのに、これでは台無しだ。毎日見るのがつらいし、堤防から見れば、自分の庭が荒れているように見え、みっともない。

水門管理者に言っても動いてくれる気配がないので、自分でやることにした。

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2015年春に開始。藪をかき分け、鍬で根っこから少しずつ取り除いていった。

そのままでは殺風景なので、近くにあったアジサイの枝を切ってきて、挿し木をした。
しかし、その年の夏の暑さで全滅。

それならと、繁殖力の強い芝桜を植えることにした。11月~12月にかけて。苗を買ってきたり、もらったりして。

寒くなる季節だったので、大丈夫かなと心配したが、芝桜は寒さにめっぽう強い。
2016年春には、かわいい花をつけてくれた。

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しかし、花よりも草のほうが強いので、新たな草がドンドン伸びてくる。草と根気くらべ。

2017年春は、芝桜はかなり広がった。

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そして今年である。
道行く遍路さんが足を止め、カメラに収めてくれていた。
学校に通う子どもたちもワイワイ言っている。

来年は、さらに広がるだろう。

水門側は観覧席であり、ピンクが水面に映える。

付近の道沿いにも植えたので、そのうち実崎が芝桜の名所になってほしいと思っている。

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ノンビリ行こうよ JR

2005年4月25日、兵庫県尼崎市のJR福地山線で106人が死亡するという脱線事故があってから、きょうで13年。

あの時、私は大阪にいた。その日も仕事。京都へ車で出かけることになっていた。朝10時ごろ、会社を出て、阪神高速に乗り走っていると、南の神戸方面の空に、へリコプターが何機も旋回している。異様な光景だった。

何だろうと思ってラジオを付けたら、事故の報道をしていた。アナウンサーは興奮していた。報道側も、詳しい状況がわかず、いらついていた。

京都でも、ラジオを聞くたびに、事故の大きさが伝えられた。犠牲者の数もどんどん増えてくる。仕事に集中できなかった。事故の実態がだんだんとわかってくる。

夜、家に帰り、映像で見ると、線路わきのマンションに車体が食い込んでいた。目をおおった。

それから、現場を電車で通る機会が何度もあった。事故がおこった魔のカーブのそばには、あのマンションが建っていた。(しばらくしてから解体された。)黙祷した。

事故の背景には、JRの焦りがあった。関西は旧国鉄時代から私鉄優位である。

JRになってから、私鉄に負けるな、追い越せ、と猛烈に突っ走った。それこそ電車のスピードを上げたのだ。速さを売りにすることによって客を奪う。「新快速」が登場した。安全への投資は二の次に置かれた。

JRは、それにも懲りず、いままた リニア新幹線にまっしぐら。国家プロジェクトだ。

なぜ、そんなに急ぐの。だれが、そんなに急いでいるの。

裏では大規模談合。
仕事をつくることが第一目的であることは明らかだ。

ゆっくり満喫鉄道旅。

ノンビリ行こうよ JR。

追悼 森岡邦廣さん

二〇一八年二月一七日、森岡邦廣さんが肺炎で亡くなられた。九十二歳。

森岡さんは大正十四年(一九二四)、幡多郡蕨岡村(元中村市)生。旧制中村中学卒業と同時に昭和二〇年二月十九歳で出征、満州へ。八月終戦は本土決戦に備えていた高知春野で迎えた。

戦後は地元営林署に入り、上司から「辞めらされんばあ~にしてくれ」と言われたほど労働運動一筋。秋水との出会いも組合活動からであった。

昭和三十四年(一九五九)六月、坂本清馬が再審請求準備のため最初に上京したさい、幡多全労協書記長として同行し、坂本昭参議院議員、森本靖衆議院議員や総評幹部らに支援要請。坂本議員は、翌年結成された裁判支援組織「大逆事件の真実をあきらかにする会」の初代事務局長に就いてくれた。

坂本議員秘書景平和平氏、全逓労組中央執行委員として専従派遣されていた長谷川賀彦氏(のち中村市長)は東京で精力的に動いてくれた。二人とも同じ蕨岡出身であり、「蕨岡組」が果たした役割は大きかった。

この裁判を機に、大逆事件犠牲者の名誉回復・顕彰運動が全国に拡がり、いまに至っているが、森岡さんはその火付け役の一人である。

中村地区労会長を経て、昭和四十三年からは中村市会議員(社会党)に。五期二十年、議長もつとめた。この間、秋水にぞっこんで、秋水と言えば森岡さんと誰もが認めるほどに全国の顔になった。

 二〇〇〇年三月、従来の労組中心から一般市民を含む幅広い組織へと、幸徳秋水を顕彰する会を結成したさいも当然森岡さんが初代会長に。

同年十二月、中村市議会が秋水顕彰決議をあげたさいは、すでに議員を引退しておられたが、森岡さんの「強引」な根回しがなかったなら、全会一致はなかったであろう。

〇七年、会長を北澤保さんにバトンタッチしてからも御意見番の顧問に就いてもらった。

小学生時代から剣道をずっと続けられ(市体育協会会長にも就任)、北澤保さん、久保知章さん(三代目会長)が昨年相次いで逝かれても、なおお元気であられたが、ついに後を追われてしまった。

いまは後輩二人と尊敬する秋水先生を囲んで熱い談義を交わしていることであろう。

森岡さん、長い間ありがとうございました。

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 瀬戸内寂聴さんと。左端森岡さん。
2001年、秋水刑死90年記念講演会。

かばた

少し前の4月2日、岐阜県関ケ原町今須にある妻両親の墓参りを済ませた帰り、琵琶湖北岸~西岸をぐるり回って大阪に戻って来た。

ちょうど桜が見ごろで、米原~長浜~賤ケ岳麓~海津大崎~今津と、どこでも湖面に白い花びらを写していた。琵琶湖周航の歌に出てくる竹生島が沖に浮かび、「今日は今津か長浜か~」の情景そのままであった。

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途中、高島市針江をナビでさがした。針江地区は、後背の比良山系から琵琶湖に注ぎ込む地下水が地上にしみ出る「かばた」(川端)があるところで、「生水(しょうず)の里」とも言われている。

この地区にも水道は引かれているが、普段の生活にはほとんど「かばた」の湧水を使っている。水とともに生きる、そんな人たちの生活が以前NHKドキュメントで放送されたことから、一度訪ねてみたいと思っていたところだ。

お寺の駐車場に車を停めて降りると、池があった。底からコンコンと水がわいていた。アスファルト道路の下からも水が噴き出し、小川に注いでいる。周りの小川はすべて湧水によってつくられている。

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岡部豆腐店があった。「昔ながらの手づくり」でつくられた豆腐はかばたに並べられていた。井戸にスイカをつるすように。

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琵琶湖の川魚や貝を佃煮にして売っている家もあった。漁は年々少なくなると嘆いていたが、それでもまだこれだけとれる。ドライブインなどよりも、はるかに安いので、たくさん買った。その家のかばたには大きな鯉が泳いでいた。

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ここらはいま観光の名所にもなっており、事前に申し込めばガイドが案内してくれるそうだ。小中学生の自然学習にもってこいのところだ。

かつて人々は水とともに暮らしてきた。豊かな暮らし。その原風景が残っている。

針江(ハリエ)の「江」は川や水の意味であるから、「針」は「張る」か、針のように水が突き出てくという意味なのではないかと思う。

四万十市もここに似ている。いま「川とともに生きるまち」をアピールしている。

四万十市の場合は湧水を使うというよりも、川そのものを生活の糧にしてきた。四季を通してとれる川魚やノリ。川漁師がいまでもいる。

私の祖母は、洗面器のことを「ちょうずばち」と呼んでいた。いま思うと、おそらく「ちょうず」とは「しょうず=生水」で、「生水鉢」のことであったのだろうと思う。

水なくして、人は生きられない。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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