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高知新聞の知事選報道

尾﨑知事が12月6日退任した。きょう7日付高知新聞は、第1面に「新たな道切り開いて」「尾﨑知事 県庁に別れ」の見出しで、花束を持って手を振る写真を載せている。

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8月21日、尾﨑知事が記者会見をし、4選不出馬、国政転身を表明してからの「狂騒」も、これでひとまず終った。

この間の動きの主役は一貫して尾﨑知事であり、「尾﨑の乱」と言われるように、名実ともに自作自演のひとり舞台であった。

高知新聞はさまざまな角度から記事にした。地元新聞にとって4年の一度の知事選挙は最大イベントであるから、これは当然のことであり、しかも過去2回の知事選は無投票であったことから、なおさらのことであると思う。

いま改めて、この間の高知新聞の知事選挙関連記事を振り返ってみると、これでもかというほどに、何度も連載が繰り返されるなど、記事の量は膨大である。私は、これは異常なほどであったと思う。

通常の記事と異なり、各種選挙関連記事となると、記事の内容は「公平」でなければならないのは当然である。記事の中で有権者が投票するさいの判断材料を提供するのはいいとしても、特定候補に肩入れをし、投票を誘導するようなことがあってはならない。

今回の知事選挙を振りかえってみれば、主役はもう1人いた。それが高知新聞である。

高知新聞はそれを意図していたかどうかはわからないが、結果として、尾﨑ひとり舞台を見る客を集めるための動員に大きな役割を果たしたことは間違いがない。高知新聞が「尾﨑正直物語」をクローズアップする「流れ」「世論」をつくった。選挙争点においても知事側が言うのと同じ、「継続か転換(混乱)か」、を拡散した。

以下に、この間の高知新聞主要連記事をのせるのでごらんいただきたい(これ以外にも、たくさんあるが省略)。最後(末尾)の11月5日記事は「評価 時代が求めた役割果たす」とあるように、尾﨑礼賛でしめくくっているのが、象徴的である。


10.5~10.18
検証・尾崎県政 第1部 浮揚へのイムズ

1. 転換 理念から実利追及へ
2. 政治基盤 相乗りと「武大清桑」
3. 対県議会 総与党化で「1強」に
4. 計画づくり 凡事徹底 仕事の「型」に
5. 牽引 率先垂範で堅調に疲弊も
6. 怒れる知事 周囲突き動かす
7. 地震対策 想定との闘い 妥協なく
8. 学力重視 教育現場に成果求め
9. 政策提言 県益獲得へ現実主義
10. 対市町村 積極関与し戦線拡大
11. 懸案処理 県民への説明 主眼に
12. 人口減 地方の底上げ 道半ば


10.22~11.2
検証・尾崎県政 第2部 産振レガシー 計画10年

1、 地産外渉 上 「どぶ板」と「飛ぶ営業」
2、  同   下 問われ続けるコスパ
3、 人材育成 学ぶ機会全国一目指し
4、 輸出 「YUZU」で手法確立
5、 高知家 県民性の本質突く
6、 観光 「博」重ねノウハウ蓄積
7、 進取性 強味発揮へ独自の挑戦
8、 移住促進 人生の決断に数値目標
9、 ものづくり マッチング苦戦でも・・・
10、 地域ビジネス 上 ヒトもカネも出す
11、   同    下 「県主導」の功と罪
12、 庁内 政策作りの「型」根付く

11.3~11.5
‘19高知県知事選 12年ぶりの「選」

1、 上  ポスト尾崎 路線継承か、転換か
2、 中  浜田陣営 与党が支える「後継者」
3、 下  松本陣営 広田氏軸に野党共闘


11.14~11.21
‘19高知県知事選  高知県の「現在地」 県政課題ポイント解説 

1. 財政 国の支援受け積極型
2. 地震対策 「犠牲者ゼロ」へ課題多く
3. 人口 「社寄増減ゼロ」難しく
4. 高齢者医療 「2025」へ対策急務
5. 少子化 産み育てられる環境を
6. 不登校 特効薬なく模索続く
7. 県内総生産 人口減下の拡大続くか


11.22
‘19高知県知事選
集活センター58カ所に 交流、活力創出に一定効果 補助金頼み、自立へ人材難

橋本大二郎前知事に聞く


11.27~11.30
継 ダブル選総括 2019知事選・高知市長選

1. 令和決戦 新時代のリーダー像は
2. 後継者 尾崎氏前のめりで信任
3. 野党勢 共闘の限界超えられず
4. 5氏乱立 現職多選批判かわす(高知市長選挙)

12.1~12.5
検証・尾崎県政 第3部 あの日あの時 記者座談会

1. 静寂からの船出 1期目 追い風逃さず好発進、学力で「成果」急ぐ
2. 懸案対応 「積年の課題」で手腕
3. 素顔 職員動かした「熱」、「情」優先した判断も
4. 尾﨑流 「弱みを強みに」の論法
5. 評価 時代が求めた役割果たす、4選不出馬は賢明?


尾﨑県政は県民の評価が高かった。県政満足度は選挙期間中89%であったことに示されているように、これも異常な数値である。一連の記事は、その背景、理由を解析するような形で編集されている。産業振興計画、観光、高知家・・・など。

しかし、私からみれば、確かに数字でみれば、成果が表れているように見えるものも多いが、しかし、全国的な水準、位置からみる限界等については、堀下げが甘く、県が発表している資料、データを書き直したようなものがほとんどであり、もの足りない。

私はこの間、四万十市長を経験した。地方自治の基本単位は市町村、地域住民を最終的に守るのは市町村であり、県ではない。この間の尾﨑県政により、市町村の自主性は弱体化、県の出先機関化し、「県庁栄えて市町村枯れる」を実感したことから、10月7日、高知新聞「所感雑感」欄に、「尾﨑県政12年を問う」を投稿した。

この記事は掲載されるか不安であったが、そのまま載せてくれた。しかし、私の主張は、「尾﨑正直物語」の洪水に呑み込まれてしまった。

私は尾﨑県政の功罪のうち「功」は、すでに「物語」とされ、さんざん書かれているような数値(過剰表現はあるが)であったと思う。これは率直に認めなければならない。

しかし、「罪」も多い。私はその最大のものは、国→県→市町村→個人という、中央主権的なヒエラルキーをつくる立役者になったということであると思う。

国の方針に従い、市町村や個人をコントロールする体制をつくったということである。高知家キャンペーンがそれを象徴している。「高知県は一つの大家族ながやき」ということは、家長(知事)のもとに、みんなまとまれということ。市町村や個人の個性や自主性は抑圧され、県の意向に従えということ。そこには「個」を育てるという視点はない。

私はそれを自分の選挙で体験している。再選をめざす2013年四万十市長選挙に尾﨑知事が突然介入、牙をむいてきたからだ。大義名分を示さないままに。

同じようなことが2016年香南市長選挙でもあり、こちらは知事が「個人的に」親しかった現職が劣勢なのをみて、参戦した。

香南市長選挙については、高知新聞の記者座談会(12月3日)では、理(大義名分)ではなく「情」を優先した判断であったと、美談風、免罪的に書いている。

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しかし、こうした「理」のない介入こそ、尾﨑県政の狂暴、独裁的な体質を示しているのであり、高知新聞が堀り下げるべきであった。

選挙後の「検証第3部記者座談会」は、まるでお仲間同士が勝利の余韻にふけっているようである。

また、投票日の2日前(11月22日)の記事もひどかった。2日前といえば、無党派層など、どちらに入れようかと迷っている人たちが最後に意思を決める時である。

そんな日の社会面に、「集活センター58カ所に」「交流、活力創出に一定効果」と58カ所の一覧表までのせた記事を書いた。集落活動センターは尾﨑県政の目玉政策の一つであり(私は投稿でその問題点を指摘している)、その実績をわざわざ紹介してやった。最終盤で浜田陣営に有利に働き、ダメ押しになったと思う。

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私は第2次安倍政権誕生以降、特に全国紙劣化が目をおおう状況の中で、地方紙、特にわが高知新聞は健闘をしていると評価し、誇りに思ってきた。

しかし、今回知事選の一連の報道は、社会の公器(木鐸)としてのジャーナリズムの役割を逸脱したものであり、高新どうした、これから大丈夫か、と大いなる不安を覚えた。

尾﨑知事の異常

高知県知事選挙が終わった。勝ったのは、自公と尾崎知事が支援をした前総務省官僚浜田省司氏だった。

選挙結果の分析、評価は、新聞等でいろいろ書かれている。その中で、勝敗を分けた大きなポイントになったのは、尾崎知事が全面的に浜田候補を応援したこと、という見方では共通している。私もそう思う。この点に絞って書きたい。

私はこの選挙の主役は尾崎知事であったと思う。さながら自作自演のひとり舞台であった。

今年8月、自らは4選不出馬と衆議院高知2区に自民党から出馬を目指すことを表明。併せて、後継候補に浜田氏を指名した(自分一人で決めた)。

尾崎知事は、過去2回無投票で続投してきたように、「県民党」的な、幅広い支持があった。しかし、今回は、自民党にひた走り、選挙本番では公務を放り出した形で浜田候補を応援した。録音テープも各戸に電話で流した。おそらく、過去の全国の知事選挙でも、これほどまでに現職が後継のために「矩(のり)を踰(こ)え」、動いた例はないのではないだろうか。

選挙結果を受けた26日の記者会見では、11月7日告示から24日の投票日まで、土日を除く平日12日のうち10日は公務をしたと開き直っているが、高知新聞の知事動静欄を見ればわかるように、その10日の記載はわずかで、少しだけ県庁に顔を出してから、内部協議だけすませ、応援に駆け付けたことが明らかである。

公務の合間に応援をしたのではなく、応援の合間に少しだけ公務をした、というのが実態である。

応援スタイルも、屋内の集会でマイクをもつだけでなく、腕に運動員の腕章をまいて、歩道から街頭宣伝も行っている。知事がそこまでやるのか、と誰もが思うような、異常、異様な光景であった。

尾崎知事のこうした行動をみて、「本性が現れた」という見方が多かった。

しかし、私にはそんなことはわかっていた。尾崎知事はそんな人物であるということが。みんなが抱いているような幻想はもっていなかった。私は、6年前、「本性」を目の当たりにしているからだ。

というのも、尾崎知事は私が再選をかけた2013年4月の四万十市長選挙に乗り込んで来て、相手候補(現中平市長)を応援したのだ。

相手チラシには、両者肩を組んだ写真を載せた。(今回も浜田候補もそっくりの写真を使っていた)。

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相手が市立中央公民館で総決起集会を開いた日、知事は午前中、私も出ていた幡多の首長らが集まった観光振興のための会議に出たあと、宿毛市方面で他の公務をこなしてから、夜の集会に臨み、壇上からマイクで「現市政とは連携が十分とはいえない」と言って、ガンバローとこぶしを挙げた。

尾崎知事 中平写真

この日は、昼は公務であっても夜は明らかな政務。なのに、公民館に公用車で乗り付け、公用車で帰っていった。政務に公用車を使ったのだ。

こうした知事の行動は、本来公平であるべき市町村の選挙に介入したものとして、「やりすぎ」という批判が出た(新聞投書も)ことから、知事は記者会見で「今後は原則としてかかわりません」と弁解、約束した。県議会答弁でも同じように答えた。

しかし、尾崎知事は、3年後の香南市長選挙でこの約束を破った。この時は、自分の最初の選挙で世話になった(後援会事務局長)元県議の現職を応援したのだ。劣勢の中、「知事効果」で勝った、と高知新聞に書かれた。

この二つの選挙については、すでにこのブログで書いているので、詳しくはこちらを読んでいただきたい。
→ http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-264.html

私は負けたから書くのではない。私が言いたいのは、知事が市町村長選挙に介入した大義名分は何だったのかということだ。

知事も26日の記者会見で言っているように、知事も政治家であるから、自分の政治主張をすることはかまわないし、選挙の応援をすることも許される。それはいい。

しかし、議員とは違い、首長となると、地域住民の生活を左右するような強大な権限(執行権)をもっている。だから、大義名分がない限りは、他の選挙に介入することには、抑制的であるべきである。

大義名分がある場合は別である。例えば、沖縄において、知事が市町村長選挙にかかわる場合である。辺野古基地問題のように、県政(国政)の争点と密接につながる争点がある場合である。県の問題と、市町村の問題が密接につながっているからだ。

では、四万十市、香南市の市長選挙にそんな争点あったのかというと、なかった。

四万十市では、現職市長(私のこと)とは連携がとれていないといわれたが、私には何のことかわからなかった。知事も具体的なことは、何も言わなかった(言えなかった)。

香南市の場合もそうだ。県が絡む争点はなかった。

要は、四万十市の場合は、漠然と私のことが気に入らなかった、香南市では、現職市長が「お友達」だったから、ということ。個人的な「好き嫌い」のレベルだったのだ。

今回の知事選もそうだ。浜田候補は自分が頼んだ候補であり、自分の政策を引きついでもらえるから、つまりは親しい「お友達」だから、懸命に応援したのだ。

しかし、これが大義名分だろうか。

松本けんじ候補にしても、尾崎県政のいいところは引き継ぐと公約で言っていた。尾崎知事は「継続」か「中断」を争点にしたかったようだが(マスコミもかなりそれに引っ張られたことは問題)、本当の争点は「国とのかかわり方」であった。

自分の後継を決める選挙だから公務を事実上放棄してまで応援をしていいのか、それが大義名分になるのかというと、ならないと思う。

自らが4選をめざし、自ら動くのは当たり前だが、自分がやめたあとの選挙はもはや「自分の選挙」ではない。ましてや、今回は、事実上、自分の12年間の評価を問われる選挙であったのであるから、厳粛に県民の審判を受ければいいのである。

なのに、候補者顔負けのようにマイクをにぎり、自分はこんなに実績をあげたなどと、自慢ばかりをしていた。自分の評価は他人(有権者)がするものであり、自分で自慢ばかりするのは、ひんしゅくである。

それでも、自分の後継を決める選挙だから、ある程度のかかわりをもつことは心情的にやむをえない、許される面はあるだろう。

しかし、「矩(のり)を踰(こ)え」てはならない。

背景には、今回の選挙結果は、次の自分の選挙(衆議院高知2区)につながることがある。半分以上は自分の選挙として動いていたのだと思う。自分の選挙の事前運動的位置づけだったのだろう。

人間だれしも自分がかわいい。
しかし、知事のような公人は、「自分のため」「お友達だから」は抑制しなければならない。今回の場合、自分が知事をやめてから存分に動けばいいのである。

今回は、どっしり構えていればよかったのに、余計に動いたことで、中立的な立場の県民にも失望、失笑を与え、自分の選挙にもマイナスになったと思う。これまでの相対的に高い評価を自ら貶めしまった。

人間、我欲に走ると自分を見失う。
もって銘すべき。

小沢一郎 秋水墓参

11月20日、小沢一郎(現・国民民主党総合選挙対策本部長相談役)が幸徳秋水墓参をした。

小沢さんはいま行われている高知県知事選挙の野党統一候補松本けんじの応援のために高知県に入ったのだが、午後1時高知空港に着くと車で宿毛に直行。同じく政治家だった父佐重喜と縁の深かった林譲治(吉田内閣で副総理、衆議院議長)の墓参をした。高知市にUターンする途中で幸徳秋水墓に立ち寄った。

小沢さんには盟友の平野貞夫さん(元自民党参議院議員、土佐清水市出身)が同行。平野さんは秋水顕彰会会員であることから、小沢さんに秋水墓参を勧めてくれたのだ。

私はこのスケジュールを事前に平野さんからの電話で聞いていたから、宿毛で待ち合わせ。私の車で先導し、日も落ち、薄暗くなりかけた夕方5時、正福寺に着いた。顕彰会宮本会長ら6人が出迎えた。

私は小沢さんに大逆事件と秋水について簡単に説明。隣の坂本清馬墓や地元顕彰活動についても加えた。

小沢さんは、ふむふむといった感じで黙って聞いていた。秘書がもってきた花を墓前に差し、じっと墓に手を合わせた。

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小沢さんは、大逆事件や秋水についてはこれまで特に関心をもっていたわけではないようで、「不義や不正に対し闘った人なんだよな~」と言われた。

さらに、同行記者との政局についてのやりとりの中で、平野さんから秋水について教えらたことを話題にした。秋水は皇室を尊敬しており仁徳天皇の政治は社会主義と同じだと言っていたそうで驚いたよ、と満足そうに笑われた。

このことは、秋水の書「社会主義神髄」に書いてあり、秋水の若き頃の天皇観を示すものである(その後変わっていく)。

小沢さんは岩手の人。石川啄木が秋水思想の影響を受けたこと、原敬が首相時代、所属する政友会の高知支部が秋水を憲政功労者として表彰したことも、平野さんから聞かされたようだ。

小沢さんはテレビで見る通り、大物政治家ということがうなづける、近寄りがたいようなオーラを発しているが、語り口はひょうひょうとして人を引き付けるものが感じられる。顕彰会メンバーとの記念写真を頼むと気安く応じてくれた。

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小沢さんは30分ほどで、また車に乗り、高知市に向かった。顕彰会でまとめた秋水読本や秋水通信を資料として提供した。

大逆事件は桂太郎内閣が仕組んだもの。歴代首相の中で在任期間最長記録はこれまで桂太郎であったが、20日に安倍晋三が超えたその日に、小沢一郎が秋水を墓参したというのも政治の舞台裏の因縁というか、歴史的なものを感じた。

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小沢さんは東京から4人の同行記者を引き連れていた。宿毛では2人の地元記者(高知、朝日)も加わった。

平野さんによれば、選挙応援でマイクを使わないのが小沢流だそうだ。同行記者の取材に答える形で政局や選挙についてコメントをし、新聞に書かせる。それが応援になる。

宿毛の林譲治墓参は、1996年以来23年ぶり。父佐重喜は戦後第1回衆議院選挙で代議士になり、自由党で要職に。吉田内閣の大臣など。林譲治は副総理、衆議院議長などをつとめた人。吉田、林の宿毛人は政治の師であった。親の恩を忘れない政治家の義というものか。

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林譲治の父は自由民権家林有造で、秋水は16歳の時、家を飛び出し東京の有造の書生にころがりこんだ。有造は「立志社の獄」で弾圧、囚われ、盛岡で入獄したことも。そんな秋水、有造、岩手のつながりもある。

小沢さんは、林家墓、有造墓、譲治墓と三つ並ぶ墓の前で、記者からの「ぶらさがり取材」に応じた。

「 安倍内閣は桜の会のように権力を私物化、腐敗しきっており、瀕死の状態。内政、外交すべてに実績をあげていない。知事選では共産党候補でまとまったが問題はない。県民の抵抗は一部にはあるだろうが、乗り越えなければならない。年内に野党がまとまり、政権の受け皿を示せば、次の選挙では必ず勝ち、政権交代ができる。安倍内閣は吉田、林さんがつくった保守本流ではない。亜流だ。野党は保守本流の支持も得なければならない。」

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翌日の高知新聞には選挙情勢欄に、この記事が載った。さすが読み通り。

小沢さんは、翌日朝、松本けんじ事務所を激励訪問し、午前中の便で東京に帰って行った。

独特のオーラを残して。

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松本けんじに期待する

2019.11.10  しんぶん赤旗 インタビューを受けた記事です。

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秋水を生んだ風土と人々(12)日韓連帯

 12.日韓連帯

 話は今年に飛ぶ。

 五月、韓国ソウルの幸徳秋水研究者、金(キム)昌(チャン)徳(ドック)さんが中村にみえた。東京の初期社会主義研究会会員で金子文子研究者の亀田博さんと一緒に。亀田さんには会ったことがあったが、金さんは初めて。秋水顕彰会メンバーで二人を秋水墓、生家跡、絶筆碑、図書館資料室などに案内した。

金さんは、韓国アナキズム運動を受け継ぐ社団法人国民文化研究所の総務理事で、かつ韓国アナキスト独立運動家記念事業会の事務局長。秋水の思想は死後、韓国アナキズム運動、対日独立運動に影響を与えたという。(二人は、今回高知市草の家の案内で槇村浩も訪ねた。)

秋水が大逆事件で拘束された明治四三(一九一〇)年は日本が韓国を併合した年。秋水は韓国、朝鮮の独立運動に関心を寄せていた。その前年、安重根(アンジュングン)がハルピン駅頭で伊藤博文をピストルで撃った「義挙」を讃える漢詩をつくったことは有名である。

秋水はクロポトキン「麺麭の略取」を翻訳出版、日本で最初のアナキストとされているが、大杉栄、伊藤野枝が関東大震災で虐殺されたように、弾圧で日本ではアナキズムは広がらなかった。しかし、韓国では浸透した。

今年は韓国三一独立運動から百年。「第三の大逆事件」を描いた映画「金子文子と朴烈(パクヨル)」(六月、中村、高知で上映成功)の通りである。

金子文子の墓が朴烈の生地、韓国慶聞(ㇺンギョン)市にあり、毎年命日に追悼式が行われていると、金さんからお誘いを受けたので、七月二三日参加した。ソウルから貸し切り高速バスで二時間の山の中。文子墓は朴烈義士記念館の敷地内にあり、展示では秋水も紹介されていた。

韓国政府は昨年文子に日本人二人目の独立有功メダルを授与したこともあって(一人目は弁護士布施辰治)、式典は例年より多数の地元市長など約百人参列。私も「幸徳秋水地元の元市長」と紹介され、献花した。イベント会場では、女優チェ・ヒソ(映画の文子役)の挨拶、研究発表、シンポジウム、文子を讃える市民コーラスなどがあった。

二日目は芙(プ)江(ガン)に移動。文子が養女とされ少女時代暮らした家や小学校、警察署跡などの案内を受けた。

日本からの参加は山梨県(文子故郷)の金子文子研究会会員や亀田さんなど十名であったが、ソウルから往復一泊二日の費用は全額主催者持ちの招待であり、心温まる歓迎を受けた。日本人でありながら、韓国で愛され大切にされている文子。韓国の人たちは「反日帝」ではあっても「反日本人」ではない。その懐の深さ、広さに涙が出た。

安重根裁判の弁護士は旧野市町出身の水野吉太郎で無罪を主張している(最終死刑)。高知県と韓国の縁(えにし)。

秋水を知ることは日韓の歴史を知ること。いまの日韓問題の背景、真実につながる。元凶は日帝(大日本帝国)さながらの安倍政権。秋水が日韓連帯を呼びかけている。(終り)

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 右端 金昌徳さん    金子文子墓に献花

週間 高知民報連載(全12回) 終り 2019.10.6

秋水を生んだ風土と人々(11)帝政派の牙城

11.帝政派の牙城

 本連載もあと一回。冒頭に書いたように、私のテーマは「秋水はなぜ高知ではなく中村に生まれたのか」である。

明治四年生れの伝次郎は、同二十年、十六歳の時、中村を出奔し単身上京。自由党林有造の門をたたいたが、保安条例で土佐人は追報された。翌年再び飛び出し、大阪にいた中江兆民の書生になり、その後の運命を決定づけた。兆民から民権思想を学び、秋水の号ももらう。

中村が高知と違うのは、元禄二年、中村藩改易以降、城下町でなくなったこと。常駐家老がいた安芸、佐川、宿毛などとも異なる。家臣は百姓同然の郷士や地下浪人に身を落とした。町の運営は実質的に町人の手に。町人が実力をもち、町人の中から学者(遠近鶴鳴)も生まれた。

しかし、町人は世の動きを見るに慎重、穏健である。学問も朱子学で権威に忠実。幕末勤王運動においても、武市半平太の土佐勤王党結成の血判状に加わった者は、樋口真吉をはじめ幡多からはほとんどいなかったように、連携をとりながらも一線を画していた。

明治になり、一時鹿児島の西郷隆盛に呼応する動きを見せたこともあるが、新政府に簡単に懐柔され妥協、服従。明道会という保守的結社をつくっていた。

こうしたグループは板垣退助らの民権派(自由党)に対して帝政派(国民党)と呼ばれていた。この対立は明治前半期高知県政界の基本構図となる。

明治十二年、県議会が開かれたが、その勢力は高知から東は民権派、西の高岡郡、幡多郡は宿毛を除き帝政派が強かった。中でも中村は帝政派の牙城であった。

中村にも民権派はおり板垣を迎え、十五歳の伝次郎が歓迎の辞を述べたこともあるが、少数派であった。

この連載で紹介してきた母方親戚筋の安岡、桑原、小野、木戸はみな帝政派。小野道一はその領袖として県会議長までつとめた。彼らはみな士族格。母多治が小野の出であったためである。

幸徳家は商人で経済力があったがゆえに、小野家との異例の縁組をした。しかし、明治になり四民平等になったとはいえ、士農工商の身分の差は厳然として残っていた。たとえ相手が郷士であっても。

木戸明の塾で伝次郎は、同年代の親戚の子らの中で飛び抜けて成績優秀であった。しかし、彼らは士族の子。自分は商人の子で「町の子」と呼ばれた。なぜ親戚なのに自分だけそう呼ばれるのか理解できない。幼き伝次郎の中に巣くったコンプレックスのようなもの。そんな反発が伝次郎を早熟な自由党シンパにしてしまったのではないか。

しかも伝次郎は二歳にして父亡き子に。卑屈な気持ちも加わっていたのではないか。

このようにして、中村という歴史風土の中で、「平民」にこだわる、身分、階級に敏感な少年が育ち、中江兆民との出会いに至るのである。(続く)

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 幸徳秋水(12歳頃)    母多治

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.29  

秋水を生んだ風土と人々(10)木戸明

10.木戸明

木戸家の祖は江戸寛永の頃、摂津国吹田から幡多郡佐賀を経由して中村に来た商人。吸田屋と称し中村を代表する豪商となり、俵屋(幸徳)などとともに交代で町老をつとめた。

木戸明は天保五年生れ。父広之助は分家、望んで百姓に転籍後、地下浪人(士分)に列した。母佐和は安岡良輝の妹、安岡良亮と明は従兄弟になる。妻和佐は桑原家から。

は安岡良輝、樋口真吉に学問、武道を習った後二四歳で上洛し岩垣月洲の門に入り国学経書を学ぶ。上洛は三度に及び、江戸の梁川星巌とも親交を深めた。

文久、慶應年間、勤王運動、特に国防、海防活動に没入し、私財を投じて大砲を鋳造、四万十河原で実射後藩に献納。ために「破産勤王」と言われるほどであった。

維新東征には参加しなかったこともあって、安岡良亮、桑原戒平、小野道一らのようには官に入らず、地元後進の教育活動にその後の人生を捧げた。

中村大神宮隣の自宅に家塾遊焉義塾を開設。身分を問わず近隣の子どもたちを集めた。

安岡、桑原を通して木戸家ともつながる商家の伝次郎も入門。「孝経」の素読から始まり、「三国志」、「唐詩選」へ。栴檀は双葉より、八歳にして小野の祖母(須武子)の還暦を祝う漢詩をつくるなど、神童伝説を生んでいる。

秋水の格調高い漢文調の文章は、木戸明に叩き込まれた土壌の上に、ジャーナリストとして時事論説、評論を積み重ねた産物である。

土壌は思想面でも。秋水は絶対主義的天皇制という人民支配システムについては激しく攻撃したが、天皇そのものについての論及はほとんどない。獄中で書き上げた最後の書「基督抹殺論」は天皇のメタフォー(隠喩)との見方もあるが、「日本の名著」とされる秋水「廿世紀之怪物帝国主義」(明治三四年)には、若き頃の書とはいえ「日本の皇帝は・・・戦争を好まずして平和を重んじ給ふ」「自由と平和を重んじ給ふ」というようなくだりがあり、儒教的倫理感の呪縛から脱せていない。

秋水は「日本人の詩には和臭があつて到底彼地の人には見せられんけれども、木戸先生のはその平仄から四聲の配置から唐詩選中の詩にも恥しからぬものがある」と評価していた(岡崎輝著)。

しかし、明治三六年、秋水が新刊「社会主義神髄」を明に贈った葉書が四万十市立郷土博物館に保存されているが、その内容は到底師の理解の及ぶところではなかった。

師岡千代子「風々雨々」によれば、明治三九年夏、夫婦で帰省時、愛弟子を心配する師が訪ねて来て、秋水を説得した。師が帰ったあと、秋水は寂しそうにふさぎ込んでいた。それを見た母多治は「木戸先生は普通の年寄りぢゃもの、わたしゃ伝次郎の味方ぢゃけん」と息子を励ました。

明は中村中学、高知中学でも教壇に立った。高知では濱口雄幸(ライオン首相)、野村茂久馬(土佐の交通王)らを教えた。城山三郎「男子の本懐」では、濱口のことを「雲くさい」と評したと書かれている。

大正五年、八五歳で没。墓は正福寺の秋水隣だが、秋水東向きに対し北向き。頑くなに思想を容認しないかのように。墓碑の撰文は中村の弟子吉松茂太郎(海軍大臣)

大正八年、教え子たちは中村小学校玄関前に銅像を建てたが、戦時金属供出された。戦後、為松公園登り口に顕徳碑を建てた。題字は野村茂久馬。(続く)

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    木戸明

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.22

秋水を生んだ風土と人々(9)小野英、輝

9.小野英、輝

明治二八年、叔父小野道一の自殺は、当時二四歳の秋水にとって衝撃であった。

本連載冒頭で紹介したように、秋水は明治三七年、平民新聞に「予は如何にして社會主義者となりし乎」を書いた。そこに自分の境遇と読書(学問)をあげ、境遇の一つに「維新後一家親戚の家道衰ふるを見て同情に堪へざりし事」をあげている。岡崎輝は「従兄秋水の思出」において、これは道一の死のことであり、秋水へ与えた「精神的打撃は甚大」であったと書いている。

輝は道一、英(ふさ)夫婦の三女。当時七歳、東京で同居していた秋水を兄と呼んでいた。

道一は当時「かっけ」にかかっていた。病気と生活困窮を苦に自ら命を絶ったことが考えられるが、ほかにも追い込まれていた何かがあったのではないか。秋水はそこに社会の不条理のようなものを見たのではないか。 

道一の妻英は安岡良亮の次女。周りからの援助の手(谷干城など)を断り、娘二人を連れ千葉館山で教員になり自立。後に日露戦勝記念として中村に最初にできた幼稚園の初代園長として迎えられ、高知県保育(幼児教育)の魁として名を残している。

小野家としては、道一の死後、小野別家に嫁いでいた長女達の三男行守を次女武良の養子として籍に入れ、家を継がせた。秋水は明治四十年、最後の里帰りをし、クロポトキンの「麺麭の略取」を翻訳したさい、当時中学生であった行守に筆記の手伝いをさせた。このエピソードを作家上林暁が聞いて、小説「柳の葉よりも小さな町」に書いている。

英は秋水が東京に戻るさい、「傳次さんよ、今度東京へ行っても亦先のやうな危いものはどうしても書かれんぜ、お母さんはもう七十一ぢゃけん、何時どんなことがあるかも知れんから、お母さんの生きている間に再び牢に入るやうなことをしてはならんぜ」(輝前掲著)と念を押した。

しかし、秋水は中村から船で大阪に出て、親戚の桑原政明の家に泊まってから紀州新宮の大石誠之助のもとに立ち寄ったことで、大逆事件の罠にはめられることになった。

秋水は獄中から母に何度も手紙を書いている。その手紙を母に読んでやるのはいつも、小学校教員になっていた輝であり、母の返事も輝が代筆をした。

英は晩年は大阪豊中の岡崎家に引き取られ、輝に言われ「八拾余年の思出」を書き残した。幕末維新の頃の中村のまちの人たちの暮らしを伝える貴重な記録となっている。昭和十二年没、八七歳。

輝は文筆に優れ、戦後昭和二二年「従兄秋水の思出」を書いたほか、丘佐喜子のペンネームで「南国新聞」(中村の地方紙)にもたびたび寄稿。昭和四三年没、七九歳。

なお、小野家を継いだ行守は陸軍士官学校出。京都帝大、英国留学を経て兵器工学の権威となった。満州関東軍少将の時、牡丹江でソ連に抑留され、昭和二二年八月、ハバロフスクで病死。五五歳。

小野雲了以下一族の墓は中村の羽生山にあったが、のちに太平寺に移された。しかし、いまは撤去され跡形もない。(続く)

小野英(前)と娘の輝  上岡正五郎「小野家一族之系譜」より
小野英(前)、輝(後)

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.15

秋水を生んだ風土と人々(8)小野道一

8.小野道一

小野は秋水母多治の実家である。小野雲了、須武子の子は娘二人、多治と嘉弥子であった。普通ならどちらかに婿をとるのであろうが、多治は商家幸徳に、妹の嘉弥子は雲了の姉菊が嫁いでいた郷士安岡の次男良哲(良亮の弟)に出し、小野家養子として桑原義厚、教の次男で甥の道一を迎えた。道一の兄は前号に書いた桑原戒平である。

道一は嘉永三年生れ、戒平の六歳下。兄同様、安岡良亮に学問を、樋口真吉に剣術を学んだ。維新後、谷干城に従って上京、大学南校で法律を学んだ。干城、良亮、戒平は維新東征迅衝隊の幹部であったという関係が背景にあったと推測されるが、上京の詳しい経緯や時期等についてははっきりしない。道一はその後も生涯、干城と深いかかわりをもつ。

安岡良亮は新政府入りのため明治二年一家で上京。道一も官に入り、明治三年、東京で良亮次女の英と結婚した。いとこ同士であった。(良亮の長女の芳も桑原戒平妻になっていた。桑原兄弟と安岡姉妹が結婚。)

道一は度會県(三重)、三潴県(福岡)警察部長、鹿児島裁判所、大審院を歴任後、兄戒平と同時期中村へ帰り、兄に続き第三代幡多郡長、さらに県議会議員を四期十年(明治十三~二三年)、第十代議長も務める。明治二十二年、東京で開かれた帝国憲法発布式典には県議会議長として参列している。

一は民権派(自由党)と対立する帝政派(国民党)の領袖であり、一時は国会議員候補として名前があがるほどであった。道一にとってこの約十年間が「華の時代」。

しかし、道一の政治生命は県議会議員を辞職に追い込まれたことで終わる。兄戒平が立ち上げた同求社に協力したことで一蓮托生であった。

道一は県から資金を借り入れたが、事業が行き詰り返済不能に。議会民権派から格好の攻撃材料にされた。

財産のすべてを失った道一は家族を連れて再び上京。旧友杉浦重剛らの経営する日本新聞に職を得た。日本新聞の社主は陸羯南であったが、杉浦は設立メンバーの一人であり、大学南校同窓であった。

当時秋水は独身で中江兆民の書生をしながら国民英学会へ通学していたので、神楽坂の小野借家に同居することになった。岡崎輝「従兄秋水の思出」によれば、道一と秋水は「党派は違ふけれども心安くしてゐた」。しかし、秋水の当時流行りの軟文学好きに対しては、堅い学問をしてきた道一は「汝は極道ぢや」と叱るなど、秋水の生活態度には厳しかったようで、秋水を悩ませた。

明治二四年、道一は日本新聞をやめ、逓信大臣となった後藤象二郎の紹介で金沢郵便局長になる。しかし、腸チフスの大患にかかる。二年後東京に戻り、中央新聞に就職していた秋水と再び同居。

道一の体調は戻らず家で療養していたが、明治二八年八月、療生のため伊田(旧大方町)の小野分家に嫁いでいた妹仲のもとへ帰る途中、神戸摩耶山の麓で縊死。四六歳。神戸から高知行の船に乗ろうとしたのであろうが。

輝は「父が極めて不遇の中で急死した」とだけ書いている。(続く)

小野道一 上岡正五郎「小野家一族之系譜」より
 小野道一

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.8

秋水を生んだ風土と人々(7)桑原戒平

7.桑原戒平

桑原家の祖は初代中村藩主山内康豊に従ってきた医師。中村藩改易後は江ノ村に移り庄屋となり周辺に分家。戒平は蕨岡伊才原大庄屋桑原義厚の長男として弘化元年生まれた。

母教は小野家出身で、教の妹須武子は小野雲了の妻となっていたので、その娘多治(秋水母)と戒平は従姉弟になる。

戒平は学問を安岡良亮に、剣術を樋口真吉に習った。維新東征では迅衝隊十二藩隊半隊長差引役、会津で負傷。安岡良亮長女芳と結婚した。

新政府に入り、清国に留学派遣。明治八年、安岡良亮が先に赴任していた白川県(熊本)へ七等出仕。同九年、神風連の乱に遭遇。県令良亮は斬られたが難を免れ、県令代理として事件処理に奔走。翌年も西郷蜂起の西南戦争があったが、収束後中村に帰郷。初代桑原平八(同族)に続き、二代目幡多郡長(明治十三~十五年)になった。

戒平の長男、順太郎は秋水より一歳上。後年、秋水は「順太郎さんを見よ、あんなに大人しうせねばいかんといって、順太郎さんのお陰で何遍母に叱られたか知れん。子供のときには大に順太郎さんを怨んだものだよ。」(岡崎輝「従兄秋水の思出」)と語っている。

戒平は事業意欲も盛旺。親戚縁者から資金を募って同求社を立ち上げた。旧土佐藩貨幣局の事業の払い下げを受け、大阪港路開設、樟脳の輸出等のほか、板垣退助から権利譲渡を受け、田ノ口銅山採掘にも乗り出した。本社大阪、分社高知、中村。

戒平は明治十八年七月、高知の弥生新聞(帝政派)が読者人気投票で選んだ「土佐十秀」の中の「商法家」部門において二百十四票を獲得して一位となった。他は「慷慨家」板垣退助、「理論家」植木枝盛、「画家」川田小龍など、高知の錚々たる顔ぶれの中で幡多から唯一登場。高知市立自由民権記念館に、その記事が展示されている。

しかし、事業はそれこそ「武士の商法」で、たちまち行き詰った。戒平は中村にいられなくなり、家督を弟義忠に譲り、東京へ出た。
事業破綻は親戚縁者に累を与えた。俵屋(幸徳)は同求社に事務所を提供していた。運悪く、その頃、秋水が通っていた中村中学が廃校となり、高知中学に吸収されることになった。しかし、秋水は家の経済状況悪化からすぐには転校できず、安岡秀夫らに一年遅れて高知へ出たが、授業についていけず落第、学校放棄。秋水最初の挫折となった。

戒平には官時代の人脈があった。上京後は北豊島郡長、八丈島島司、小笠原島司から日本統治後まもない台湾新竹支庁長などを歴任。台湾では総督の乃木希典、児玉源太郎に仕えている。

東京では親戚として秋水と行き来があったようで、師岡千代子は「風々雨々」の中で「私が嫁いだころには、最う白髪童顔の好い加減の老人であったが、見るからに何處か剛腹な人であったやうに記憶して居る。如何にも尊大なこの人だけは、何時までも秋水を鼻垂れ小僧扱ひにしてゐた」「さすがの秋水もこれには参って居た」と書いている。

戒平は老いてからキリスト教に入信。大正九年、七六歳で没。墓は晩年暮らした鎌倉にある。(続く)

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 桑原戒平

週間 高知民報連載(全12回) 2019.9.1
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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